田上鍼灸院

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季まぐれ通信 






2022年 2月
(舞楽はじめの思い出)


2020年 5月
(地面の色の ひ み つ)


2019年 12月
(香り2)


2019年 9月
空蝉(うつせみ2)


2019年 2月
西郷どん


2018年 9月
天災は忘れたころに・・・


2018年 3月
娘さんとチャボ(矮鶏)


2018年 1月
父のツボ


2017年 8月
蝉の青春


2017年 5月
たばこと暫しの別れ


2017年 3月
コノハズク


2016年 9月
トンカラリンをご存知ですか?


2016年 7月
仙台のこと


2016年 3月
郷中教育・制度


2016年 1月
命拾いしました


2015年 12月
五省


2015年 11月
ゴースト


2015年 10月
彼岸花のころ2


2015年 7月
カッター漕ぎましたのその後


2015年 5月
カッター漕ぎました


2015年 4月
タンポポ


2015年 4月
られやすい人


2015年 4月
ナフタリンの人


2015年 2月
節分の鬼


2014年 10月
嫁菜(よめな)


2014年 10月
Yさん


2014年 5月
梅雨の思い出


2014年 3月
お相撲さん


2014年 2月
牡蠣の条件反射


2013年 10月
夏去りぬ


2013年 6月
博物館へ行こう


2013年 4月
旅立ち


2012年 10月
五条鴨川の怪

2012年 7月
秘境編

2012年 2月
パン焼き器


2011年 11月
ロッキングチェア
でレコードを!


2011年 5月
原爆乙女
~家族ケア連載より~


2011年 2月
お引越です!

2011年 1月
坐骨神経痛の幽霊おば様
~家族ケア連載から~



2010年 11月
怪しい人

2009年 7月
鐘楼流し

2007年 11月
トマソン


~気まぐれ、季まぐれに綴ったお話です~





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季まぐれ通信63号(舞楽はじめの思い出号)より

もう40年近く前の思い出です。
正月明け、奈良若草山の山焼きを見るため、奈良ホテルに夫婦で宿泊。「ここからならドンピシャ見える!」と思っていたのに、昼間の散策の出発前に「雨で中止」との知らせが!
 雨の中、現場に行くと、消防団の人たちがいらしたので「すっごく楽しみにしていたのに、中止って、何とかなりませんか?」というと、「あかん、あかん。今年はだめや」ですと。「そこを何とか・・・。ホレ、そこの石油缶をぶっちゃけて火つけたら燃えるでしょ?」と食い下がると「そんなこと、できるかいな!」で終わっちゃいました。
 しょげながらも思い直し、せっかく来たんだから、春日大社にお参りを・・・と行ってみたら、さすがお正月で大変な人出。何やら雅楽が聞こえたので、人だかりの向こうの音のほうに近づくと、厳かな舞をやっている様子。のちに調べたら「舞楽始式(ぶがくはじめしき)」という催しだったらしく、春日古楽保存会と南都楽所(なんとがくそ)という組織の方々の奉仕によって、舞楽と舞が奉納されていたのです。山焼きに振られたのに、こんな厳かな行事に偶然立ち会えたのは、大変な幸運でした。
 この時、ハプニングがありました。私たち夫婦は背が低く、外人さんなども多い見物客の中にいては、背伸びしても何も見えない・・・、と思っていたら、横からどんどん押しまくられ、「ちょっと、押すなってば!」と抵抗していたのに、満員電車の中のごとく体が浮遊して移動し、紐が張ってある場所まで来るとさらに押され、こけそうになったので、仕方なく紐の先に入ってしまいました。
「もうちょっとで、こけるところだったじゃない!」と憤慨する間もなく、こんどは「先生どうぞ、こちらです」という一団がやって来ました。紐の向こうは、舞台への通路だったのです。そこでまた彼らに押され、「あの、私どもは・・・」言ってるのに、どやどやと建物の中に押し込められまして、「もう今日は何なんだよ!」と思っていたら、そこは楽団のすぐ横。舞を後ろから観賞できるのでした。いえ、決して計画的な所業ではございませんってば。
 「先生」の隣に立っていると、保存会のメンバーの方々が舞が終わるごとにお面を外し、汗を拭きながら解説をしてくださる。最初から退屈そうだった先生は、アララ、いつの間にかいなくなってまして、それでも保存会の方々は、交代で息を切らしながら、私たちに舞や雅楽の解説をしてくださる。また「この装束は、いつの時代のものですか?」などという質問にも「中には平安時代のものもありますが、傷んだものは順次誂えております」などと詳しく解説してくださいました。いえ、だましたんじゃないんですってば。
 私があまりの熱意につられまして、「あの演奏の方々の横に、上がらせていただいてもよろしいでしょうか?」と聞きますと、「先生、どうぞお上がりください。そのあたりに」と誘導してくださいました。もう体全部で、雅楽に浸ることができました。後日、しばらくは体のどこかを押さえると、笙の音がして、動きも何となく優雅だったですね。いえ、誰もだましたり、だまされたりしてませんってば。だって、帰りに「いあや、今日は素晴らしいものを見せていただきました。ありがとうございます。これからも、伝統継承をどうかよろし くお願いします」と激励の言葉とともにお礼を述べますと、皆さん一同に並んで、お別れに来てくださいましたもの。きっと、いい思い出だと思うのです。振り向くと、何度もお辞儀をしていらっしゃいました。
いやー、さわやかな年明けの思い出でした。ところであの先生、どなただったんだろう・・・?
(*その後、「成人の日」の変更などもあり、行事の日程・名称などは変わっていると思います)

季まぐれ通信62号(ジャカランダ号)より

2020年7月

  《ジャンカの花 ジャカランダの花》
ジャンカの花、あるいはジャカランダの花をご存知だろうか?  話せば長いことながら…、以下、若干の事前説明をお読みください。
《長男が4歳のころ、青いプラスチック片を拾いあげ、「これは僕がお母さんのおなかの中で見たジャンカの花のブルーだ」と言い出した。 どんな形の花なのか?どんなブルーなのか?どんな?どんな・・・?何を聞いても、語彙も少なく舌も回らぬ子どもゆえ、 「だから、僕がお母さんのおなかの中で見たジャンカの花なの!!」から話は先に進まず、また当時の図鑑などで調べても分からず、長らく凍結されたまま。
はい、それが2年前、ひょんなことから私が思い出したのですが、息子に聞いてみると、全く記憶がない。 どんな花なのか、発信元からは確かめようがないが、今はネットという強い味方がある。私がいろいろ調べ、勝手な検討をしてみた。
で、「ジャンカ」という言葉は見つかったものの、それは建築業界の用語で、コンクリート詰めのミスで出来る隙間のこと。
赤ちゃんが幸せしか感じないという羊水の中で見る花の名ではない。で、辿り着いたのが発音が似ている(勝手な思い込みです)ジャカランダ。 「青い桜」とも言われるというこの花。なるほど、舌の回らぬ幼児の言い間違えそうな名前ではありませぬか!!》

ということで、ネットの写真を見て恋い焦がれ、2年以上経った今年、やっと逢瀬が叶いました。この説明だけでもかなりの字数になったので、場所や経緯などは省略します。 (質問してくだされば、詳しくお答えします。私を惑わせた写真も、あります)
年甲斐もなく夢中になってしまったのには、訳があります。胎児の時期を含め、人は子どものときだけ見えるもの、感じるものがあると、私は思っています。 大人になるに従いその能力は消え、またその能力で見聞きした記憶も、少しずつ彼方へ去ってしまう。 ・・・夢中の子育ての中でそんなことを思ったことがあるのに、歳を経ると、私のその記憶もどこか彼方へ去っていたのでした。 それが、ひょんなことで思い出したら、アララ、火が点いた。恋い焦がれ、つい追求しちゃいました。

あの頃のみずみずしい感性が蘇るかも! みずみずしい子どもの気持ちになれるかも!  この世の景色を見ずに逝ってしまった次男が見たかもしれない景色を、景色の欠片を、少しくらい感じられるかも・・・と思ったのです。
そして、はい、ファンファーレは鳴らず。たぶん我が心は、かなり錆びついている。でも、何だか心がチクチク、モゾモゾ。 これは、なあに? 何十年ぶりの感覚! やがて、あらあら・・・、それまでの青空が急に暗くなって、雨が降ってきました。 なんだか後ろ髪をひかれるようで、何度も振り向いてしまう。その後に行った博物館の中でも、つい窓から外を見ていました。 帰りの地下鉄駅に向かうのに、また何度も何度も振り返ってしまい、間違いようのない場所なのに、あろうことか、私は迷子になってしまいました。
20分の道のりが、何と1時間。傘の骨は折れ、濡れながら私が歩いていたのは、はたしてこの世だったのか、はたまた、どこかの異空間・・・だったのかも知れませぬ。

あれからすでに幾日か。通勤の自転車から緑地公園のアジサイを眺めていると、目の前に何だかちらつくこれは、・・・う~ん。
妻に言ったら、きっと「それ、飛蚊症でしょ?」と言われるに決まっているから言わない。そうじゃない。これは、心の錆が落ちていく様なのか・・・。 なんてことを思っていたら、先日、階段を踏み外してこけちゃいました。皆さま、考え事をするときは、時たま下を見ましょう。
チクチク、モゾモゾ体感したい人、ジャカランダの木の下に行ってみませんか? 花期は6月ですから、それが過ぎ夏が来たら、そのあとはネットで探してください。
ジャカランダ。バラや芍薬のように気高くもなく、派手でもありませんが、青い桜、きっと普通じゃない何かを感じます。
ジャンカの花・ジャカランダの花、でした。

季まぐれ通信61号(コロナのバカ・・・号)より

2020年5月

  《地面の色の ひ み つ》
「日本植物学の父」と呼ばれる、牧野富太郎という人をご存知でしょうか? 明治から昭和32年まで生きた、高名な学者さんです。独学と今でいうフィールドワークで世界に認められる成果をあげ、長く東京帝大・東大で研究・講義をしていましたが、学歴は小学校2年中退。そのせいもあり、ずっと身分は講師のまま。金銭感覚にも疎く、薄給だったそうです。肩書より研究の人で、東大が渋々博士号を授与したのは、65歳のときでした。今でも彼の作った図鑑・著書は、植物を研究する人の間では現役で使用されています。驚くほど精密な絵も特徴で、いかに些細なことでも、その植物の特徴ならば、見逃していません。
こんなエピソードがあります。ある日、彼が教室に入ると、教卓に乾燥した植物の「根」が置いてありました。「小学校中退の学歴のくせに、最高学府の学生たる自分に教えることがあるのか?」と思っていたある学生が、牧野さんを試したのです。その学生、手をあげてこう言いました。「先生ほどの方なら、乾燥した根っこであっても、ちょっと見れば、どんな植物でも即座にお解りになるでしょうね?その根が、どんな植物のものなのか、僕にはどうしてもわからないんです。教えていただけませんか?」
先生、黙って根を取りあげ、臭いを嗅ぎ、端を噛んで目をつぶり、しばらくして目を開けると言いました。「××目(もく)・□□科・△△属の、〇〇という名の植物です。」そして、産地・特徴などを淡々と述べ、「他に質問がなければ」と、その日の講義がすーっと始まりました。アホ学生に「恥じ入る」という感性があったかどうかわかりませんが、気分のいいエピソードです。

*1998年、英国の科学雑誌「ネイチャー」に、この牧野先生のお孫さんの論文が載りました。この先生、著名な方ではありませんが、祖父譲りのDNAを持った学者さんのようです。『躑躅(つつじ)の木の下の土は、なぜ黒いか』という、興味深いような、どうでもいいような研究論文です。堅苦しい理屈を省いて概要を述べますと、躑躅の花は盛りの時には、葉が見えなくなるほどたくさん咲き誇りますが、その際に花が土中から、赤・白・ピンクと、たくさんの色を吸い出してしまう。また桜など春に一斉に花咲く木がそばにあることが多く、これらが同じく土中の色成分を取ってしまっている。そこへまとまった植栽が多い躑躅が咲くことで、色を失った土は、どんどん黒くなってしまう。・・・という内容です。なおそれでは、花咲く地球はまっ黒くなっているはずではないか?との反論が予想されますが、それにはこういった答えが準備してあります。花は咲き、やがて散る。散った花弁は、色と共にまた土に戻る。
じゃあ、予め色鮮やかないろんな花を色用肥料として土に混ぜておけば、より鮮やかな色を出せるかという声がありそうです。その質問も予想されていたようで、それには予め「否」と答えています。例えば、ほうれん草の鉄分を増やすために鉄剤、イモ類でんぷんを増やすために小麦粉や砂糖を沢山与えたら、ろくなものはできません。名人百姓は、土壌作りには手間をかけるが、追肥は頻繁にはやらない。植物は、努力せずとも養分が与えられれば、積極的な貯蓄をしない。養分が手近にないと、根の先に先に養分を求め、吸収し、素晴らしい作物ができる。そんなものだそうです。躑躅も必死に生き、素敵に花咲くのです。
ところが、この論文に対する学会の反応は、「あ、そうですか。で、何か?」程度でした。大方の学者さんは無反応。いえ、別にいいんですけどね。ロマンが無いではありませぬか。世はコロナ騒ぎで混乱していますが、花はいつもと変わらず咲き、散ります。そして地面の色は、少し黒くなり、やがて元に戻ります。人の評価など、悠久の自然の流れの中では、どうでもよいことなのかもしれませんね。
・・・・・はい、はい、はい!皆様ごめんなさいです! ネイチャー誌の発売は4月1日。*からは、ぜーんぶ、エイプリルウソ。発売日もウソ。牧野先生、ごめんなさい。ただし*の前は、たぶん本当です。
でもでも、気が向いたら、満開の躑躅の花の下、落ち葉をどけて、土の色を観察してみてみませんか?

おまけ
コロナ封じで「妖怪アマビエ」が話題になっていますが、私は、髪が無数の甘エビで出来た恐ろしい妖怪を想像していました。
はい「妖怪アマエビ」だと・・・。真実を知ったときには、結構ショックでした。

SIDS家族の会会報94号『巻頭言』より

2019年12月

  いつかの香りの話の続きです。  12月のある日、私は少し早目のお風呂年末大掃除をしました。毎年私の仕事なのですが、強力カビ取り剤を使用して2時間を要す、結構辛く大がかりな作業です。感想を申せば、きれいになったのはもちろんですが、技術の進歩でカビ取り剤のあの臭いがずいぶん消えていて、掃除はずいぶん楽でした。宣伝文句に嘘はない。ついでに私の体も、若干白くなった気がします。
 しかしそれは、私の勘違い。技術は進歩したかもしれないけれど、それを上回る速度で、私の嗅覚が退化していたのでした。機嫌よく鼻歌を歌いながら掃除する私のもとに、「大丈夫?」「換気扇つけたよ」と家人が何度もやってくる。「寒いから、何度も来るのはやめなさい」と言うと、「こんなにすっごい臭いのに、平気なの?」との答え。
 ハイそうです。時は優しくも残酷に流れます。経年劣化の法則で、神様は私の嗅覚細胞の対塩素臭細胞を、ほぼ閉じてしまっているのです。これって、残酷なことでしょうか?自慢じゃないが、私は鼻がおかしいくせに、今でも誰よりも早く、花の香りで春と秋を感じることができます。夏の暑さの痛さ、冬の雪が降る前の香りを嗅ぐこともできます。そして何より、私の人生一番の幸せ期の記憶に付随する、私の肩にゲボして寝てしまった赤ちゃんの乳の香り、オムツを換えるときのあの香り(臭いではなく香りです)を、今でも嗅ぎ分ける自信があります。
 先にも述べたことがありますが、嗅覚は原始的な感覚です。命の存続に係わるからです。じつは私は風呂掃除のあと、鼻血を出しました。それ自体はちょいちょいあることなので珍しくはありませんが、これがカビ取り剤のせいなら、私の嗅覚異常は生物としては大きな問題です。しかし神様が意図的に特定の嗅覚を残したり消したりしてくださったのなら、私はその選択に感謝します。神様は無慈悲だと思ったことはあります。でも経年劣化の個別微調整・・・。不謹慎な言い方ですが、「神様、結構やるじゃない!」と思うこのごろです。
この一年、皆さまが「神様、結構やるじゃない!」を心の中で何度も叫ばれるよう、お祈りします。

季まぐれ通信 59号より

2019年9月

  気まぐれ話《空蝉(うつせみ) 2》

昨年の梅雨の終わりは、地震・豪雨、それに報道で「経験したことのない災害」と言う言葉を何度も聞き、その後にやって来ることになる秋の台風を予想させる激しいものでした。今年の近畿は、梅雨らしからぬ梅雨がなんとなく明け、いきなり炎暑の夏でした。
当初、「今年は蝉が少ない」と言われていた夏でしたが、どっこい、ちゃんとうるさくなってきました。蝉しぐれを聞きながら木々に近づくと、幹に枝にたくさんの空蝉・・・、今鳴いている蝉の抜け殻です。
空蝉(うつせみ)は、以前(2017年8月蝉の青春)に取り上げたことがあります。寓話の「アリとキリギリス」が、イソップの原典では「アリとセミ」だったこと、ギリシャ発の物語がヨーロッパの蝉の生息域事情で蝉がキリギリスに交代してもらったこと、などを述べました。この寓話は「若いころ、遊んでばかりじゃだめよ!」という戒めによく使われますが、蝉自身は自分の生き方を反省するのでしょうか? 蝉であれキリギリスであれ、たぶん昔も今も同じように鳴いていたのでしょう。蝉の数の変動はあるので、多少静かな年はありますが、今年は蝉は盛大に鳴いていました。硬い言い方をすれば「学習能力が極めて低い」ことになります。でも、そりゃあ無理もありません。蝉さんが逝く直前に反省して子孫にそれを伝えようと思っても、親蝉たちは卵を産んだ後には死んでしまい、蝉になった子供たちに反省を伝えることはできないんですもの。
ところで、かつてフランスという詩人が、「私が神ならば、人生の最後に青春を持ってきただろう・・・」と言いました。また、ウルマンという詩人は「青春とは人生のある時期をいうのではなく、心の様相をいうのだ。・・・歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに精神はしぼむ・・・後略」
視力が退化するほど長い地中での暮らしの後、あまりに短い蝉の地上での生活。一生の最後に用意されたわずかなひと時に、蝉は歌い、恋をし、いのちのバトンを置いて逝ってしまいます。蝉が蝉の形をしていられるのは、彼の一生のうちのほんのわずかな最後の日々です。ひたすら鳴くのは、より良い連れ合いを探すため。「連れ合い」という言葉はそのあとの長い時を連想させますが、彼らに残された連れ合いでいられる時間は、出会ってからおそらく数日の間・・・。これは蝉の青春というより、彼の人生最後の姿の『蝉』であることが、青春そのものかもしれません。
前回も書きましたが、元祖イソップ版のひとつでは、アリに軽蔑された蝉がこう言います。「アリさん、私は好きなだけ歌を歌って死んでいく。あなたは私の亡き骸を食べて、生き延びなさい」・・・、これ、残酷な話でしょうか? 怖い話でしょうか?
『空蝉』と言う言葉には「蝉の抜け殻」だけでなく、この世に生きている人間・生きている人間の世界や現世『現人』という意味もあります。奴隷だったというイソップさんは、もしかしたら、奴隷の前はどこかの国の王族か貴族だったかもしれません。彼が寓話で言いたかったのは「戒め」ではなく、欧米人には理解しがたいと言うこの世の『無常』を述べているのではないか・・・。蝉の声が消えていく晩夏、以前にも増して私はそう思うのです。

季まぐれ通信 58号より

2019年2月

  気まぐれ話《西郷どん》

年末、NHK大河ドラマ『西郷どん』が終了しました。中学3年から5年間を鹿児島で過ごした私は、大方の筋が分かっていても、今までの大河ドラマとは違うまじめさで観てしまいました。
最終回、西郷さんが眠るように逝った場面では、不覚にも涙が頬を伝っていました。敗走する場面での様々な逸話は、ドラマだとかっこよいせりふで披露されますが、考えてみれば本当のことはよくわからないはずです。有名な逸話は、「生前の西郷さんならきっとこう言っただろう」と誰もが考えるもので、フィクションかもしれませんが、そう間違ってもいないと私は思っています。
ところで、鹿児島のわが家の言い伝えによると、私のご先祖の爺様は若かりしころ、薩摩の殿様のお傍にいる人だったということで、参勤交代で江戸・京都・薩摩を行き来していました。幕末にはいつも西郷さんの傍にいたらしく、西南戦争ではもちろん政府軍と戦いました。そして戦の最後のころ、ドラマであったように西郷さんは皆を集めてこういったそうです。「皆、よう戦った。そいどん、もうこの辺でよかろ。おはんたちゃあ、もうかえいやんせ」 翻訳するとこうです。(みんな、よく戦った。でも、もうこの辺でいいだろう。お前さん方は、もう帰りなさい)ここまではたぶん史実とそう違わないと思います。
このあとです。当時の薩摩の武士たちが「ハイ、では帰ります」と言うはずがない。こう言ったでしょう。「西郷先生! ないごて、そげんこちょ言いやっとですか! おいどんたちも、先生といっしょに最後まで戦わせてくいやんせ!」(どうして、そんなことをおっしゃるのですか! 私たちも、先生といっしょに最後まで戦わせてください!)
西郷さんはそんな若者たちに言いました。「なんば言いよっとか! おはんたちゃあ、生きれ!  武士の世は、もうじき終わる。終わらせる最後の仕上げにゃあ、おいどんたちの最低限の血で十分じゃ。おいどんたちは、間違いを政府に知らせるために戦ったいどん、おいたちが殺した相手は、皆おいが鍛えた同じ日本国の兵士じゃ。そいに、あん人たちは、この間まで百姓じゃった。義のためとは言え、おいどんはおいを慕う仲間とあん人たちを、心ならずもたくさん殺してしもうた。たくさんの人が死んだちゃあ、おいがせいじゃ。おいは生きながらえてはいかん。もうここらで死なないかん。おはんたちはご苦労じゃが、おいの代わりに生きて、日本国を作ってくいやい」そういって西郷さんは、若者たちに頭を下げるのです。
 西郷さんは孫子の兵法に言う『百戦百勝、善の善なるにあらず』『戦わずして勝つ』のが最善の勝ち戦であることを、十分知っていました。江戸無血開城は、まさにその例です。江戸末期の混乱の中、日本がイギリスやフランスの植民地にも傀儡国家にもならずに済んだのは、奇跡です。それなのに西南戦争・・・。八方丸く収まる善策はなく、一番傷が少ない策が、あの戦の選択だったのでしょうか・・・。
 爺様は、川内川の渡し守にボロ服を譲ってもらい、ヨレヨレになって家に帰ってきたそうです。わが家の当主は代々寡黙だそうで、私のようにべらべらしゃべったりしません。そうなると、この言い伝えはフィクションかもしれませんが、私は事実だと思います。西郷さんの願いどおり爺様は生き抜き、私たち子孫がいま生きています。 爺様と仲間たちに、合掌。

季まぐれ通信 57号より

2018年9月

  気まぐれ話《天災は忘れたころにやって来る》

『天災は忘れたころにやって来る』・・・地震や台風に出会うと、思い出す言葉です。日本各地で集中豪雨・地震・台風と大きな天災が続き、直接の被害がない人でも、今年は忘れる間がないでしょう。
 私の住む大阪北摂には、そのいくつかが直にやって来ました。台風が大中二つに地震、集中豪雨・・・。そんなときに限って神戸や京都に用事があるのですが、電車は止まったりノロノロ運転で往生しました。6月の大阪北部地震の際、我が家では食器棚からたくさんの茶碗皿が飛び出し、食器がたくさん割れました。棚の高い所に置いていた梅酒の瓶が破損し、ガラスの欠片と良い香りを衣装や絨毯にたっぷりばら撒いてくれました。仕事から帰ると毎日片付けましたが、結局復旧には一ヶ月近くかかりました。今でもたまに「アーッ、ガラスだー!」というふうに、とんでもないところからガラス片が見つかることがありますし、家具の配置のずれに気付くことがあります。
 地震発生の瞬間、阪神大震災のときの状況を思い出しました。訳あって前日に泣いていたお腹の大きかった妻のこと、本棚から飛び出す本や事典たち、私たちの間にもぐりこんできた長男の必死の顔、ショックによる早産で心配したのに、何食わぬ顔で妻のお腹の上で寝ていた三男の顔・・・。そうそう、面白いことに、あのときの記憶を再現すると、何故かどれもスロ-モーションの映像になっています。宙を舞う本のカバーの文字、妻や子どもの表情、吹っ飛んでしまった家具、食器の欠片に埋め尽くされた床。1月の6時前だから暗かったはずなのに、スローモーションの画像は、モノクロで鮮明に再生されます。
 三男と妻がお世話になった病院は、母子センターという色々問題のある母子が入る病院で、優れたスタッフや施設が整っていたため、被災地から多くの緊急事態の母子が運ばれてきていました。そんなところで、我が家は新しい命を授かりました。しかし同じ病院で、私は多くの涙を見ました。そのうちのいくつかは、生きて産まれること叶わず、震災で喪われた命としてカウントされていない命に対する涙でした。そんな中で、私と家族、新しい命は生き延びました。生き延びた私たちは、これからも生き延びねばならぬと誓いました。
赤ん坊と共に帰ってきた妻と私は、気まぐれに襲ってくる余震に備えました。家が揺れる度に乳飲み子の上には妻が、長男の上には私が被さりました。玄関には避難用グッズ入りのリュック。台所には非常食と水と携帯ガスコンロ。枕元にはスリッパ。リュックの中身も週数に合わせてミルクを替え、非常食料チェックも怠らず。外出時の集合地点の確認などもしました。

で、20年以上経った今年、大きな地震がありました・・・。
はい! み、み、みごと! みごとに忘れておりました。台風も来ました・・・が、九州育ちの私は「どうせ大阪に来るころは・・・」と高を括っていたもんで、まる二日の停電断水などとえらいことでした。朝の4時から、6階までの階段を20回近く往復する羽目になったのです。「備えよ常に!」って、ボーイスカウトでもスカウトたちに指導してたなー・・・。
 忘れてたー!!あ、いいこともありました。地震の際には私が寝ている場所の頭部分にスピーカが落ちていたので、今後のために寝床(130㎝高のベッド)を買い、狭い衣裳部屋兼用ながら私の寝室が誕生しました。めでたしめでたし!
 《天災は・・・》の言葉は寺田寅彦の言葉と言われていますが、彼の著書には載っていないそうです。でも弟子たちは良く聞いたそうですから、彼は本気で言っていたのでしょう。何度「備え」を説いても動かぬ役所やマスコミなどへの警告と、警告しながら忘れて仕舞うかもしれない自分自身への、叱咤だったのかもしれませんね。
* ・・・と原稿を書いていたら、台風24号がすぐそこまで来ちゃいました。備え!備えだ!報告は次回に!

季まぐれ通信 56号より

2018年3月

  気まぐれ話《娘さんとチャボ(矮鶏)》

 前回と同じく古いお話で、前回のお話にどこやら似ています。
時は昭和20年春。場所は、とある田舎。予科練を繰り上げ卒業間近の青年と彼の友人が、ささやかな旅行をしていました。
 大本営発表の連戦連勝報道でなく、実際の戦況を少しながら知る彼らは、自分がこれから戦地に行き、間もなく若い命を散らすことを悟っていました。遠い故郷に戻るほどの時間が与えられていない彼らは、この短い旅でふるさとと言うより日本、それとこの世に別れを告げようとしていたのかもしれません。
 旅の最後の宿は、土地の庄屋さんの家でした。当時「予科練さん」と言えば庶民の憧れであり、また口にはしませんが、これからお国のために彼らが死にゆくことを知っていました。彼らは、粗末ながら精一杯の丁寧なもてなしを受けました。苦しい中での「精一杯」がわかっているので、「泊めて頂くだけで、ありがたいです」と、いろんな申し出は断っていました。しかし、「明日からはまた大変な日々でしょう。せめて今夜は、どうぞゆっくりお湯を浴びてください」ということで、お風呂を使わせてもらいました。
(*少し解説をします。当時の田舎のお風呂(湯殿)は母屋の外にあり、灯りはありません。あっても、ランプがあればよいほうで、月明かりや母屋からかすかに漏れる光でお湯を使っていました。また現代のように、毎日は入れませんでした。 もうひとつ、文中「青年」とあるのは、当然ながら「元青年」です)
  これが最後になるかもしれない五右衛門風呂に二人は交代で浸かり、友人は洗い場に、青年が湯船にいたとき、「あのー・・・、あのー、失礼いたします。お、お、お湯加減はいかがでしょうか?」と、か細い声がしました。恥ずかしくて顔も上げられず傍に近づけない庄屋の娘さんが、少し離れたところに立っていました。暗くて見えませんが、顔は真っ赤になっていただろうと、青年は言いました。
「ありがとうございます。湯加減はよいのですが、先ほどからずいぶんお湯をくみ出して使ったので、お湯が減ってしまいました。少し注ぎ足して頂くとありがたいです」青年がそう答えると、彼女は「承知いたしました」と一礼して母屋に戻り、やがて大きな鍋を持って来ました。青年は水を入れた後に、薪をくべてくれると思っていました。ところがうつむいたまま彼らに近づき、うつむいたままの娘さんがダバーっと入れたのは熱湯で、不幸なことに、それは青年の半身以上を覆いました。
 当然大騒ぎになりましたが、連れて来られた医師はヨレヨレのおじいさんだし、当時満足な薬や道具があるはずもなく無く、処置のしようがない。遠のく意識のなかで、「予定より少し早く死ぬのか・・・」と思っていたら、どこかで「これは○○ばあさんを呼ぶしかない」という声がしました。やがてその○○ばあさんらしい声が・・・。「これはもう、あれしかないのー。おまんら、野兎の糞をいっぱい集めて来い」「ばあさん何言うとる。いまどき野兎なんかおらん。おったら食うてしもうとるが」「そうじゃの。そんなら代わりに、矮鶏(チャボ)の糞をすり鉢いっぱい持って来い。それと酢を一升と新聞紙をいっぱいじゃ」
 青年は「やめてくれー!鶏の糞で何をする。そんなもん近づけただけで化膿するぜ・・・」と思ったが、声も出ないし「どの道、もうじき死ぬ定めの身だ」と諦めた。やがてばあさんは、集まった糞をすり鉢に入れ、酢を混ぜて捏ねている様子。眼は見えないが、おっそろしく臭い。ばあさんは、そのおっそろしく臭い「べたべたチャボ糞酢」を、もう動けない体中に塗りつけると、その上から裂いた新聞紙を貼り付け、青年を新聞紙ミイラにしました。そして「2週間、絶対にはがすな」と言って帰ってしまいました。
 常識的には、全身化膿で死ぬはずでした。ところが、やがて痛みは消えて猛烈痒みに替わりました。それを我慢して2週間、やって来たばあさんは、パリパリになった新聞紙を静かにはがしました。その下から現れたのは、なんとツルツルのお肌でした。どういう理屈で何が起こったのか、わかりません。
彼の最終快復が終戦の前か後か、先に帰還した友人は?・・・私あえて聞きませんでした。このお話が終わるころ、彼が話すのを止め、どこか遠くを見ていたからです。
ともかく彼は生き残りました。「あのときのお礼を」と思いつつも、戦後の混乱でそれはならなかったそうです。風のうわさに、娘さんは「予科練さんに大怪我をさせた」ということで村人にずいぶん責められ、外を歩けなくなったらしい。そんなふうに、彼は言いました。
 終戦までに、彼の友人の多くは命を落としました。それが彼のせいでなくとも、彼は生き残ったことを苦しんだのではないかと、私は思ってしまいます。青年の命は、あの娘さんに救われたのかもしれません。風のうわさといいながら、もしかしたら青年は、数年後に現地を訪ねたのかもしれません。そして遠くから菜の花畑の向こうにある朽ちかけた屋敷を眺め、心の中で苦悩を白状し、礼を述べ、それから手を合わせ、娘さんの幸せを祈ったのではないでしょうか。責められた娘さんのほうも、青年に詫びこそすれ恨むことはなく、その後もずーっと青年の無事を祈っていたのではないか・・・。
これは青年と娘さんの、悲しくせつない初恋だったかもしれない・・・。今朝摘んできた菜の花を眺めていたら、ふいに私は青年の話を思い出したのでした。

季まぐれ通信 55号より

2018年1月

  気まぐれ話 《父のツボ》

 かつて父が「おまえ、あのツボの研究をせんか?」と言ったことがあります。昭和53年、私が鍼灸の学校に行きだした年です。
 父は大正生まれ、鹿児島の山中の家で育ちました。11人も子どもがいる貧乏な家の10番目の子である父は、親ほど歳の違う兄姉とは距離があり、歳が近い弟といつもいっしょに山を走り回っていました。そんなある日、父は小枝の先で目を突いてしまいました。相当に痛かったのに、病院に行くお金を心配した彼は、親に黙っていました。そういう時のお風呂が厳禁なのは、子どもだった父も知っていましたが、その日に限ってお風呂のある日で、入らないと怪しまれると思った父は弟と入浴。
 夜中に、やっぱりさあ大変。目が痛くて痛くて泣き出して、ばれてしまいました。散々しかられた彼は、あくる日、湯飲みを持って赤ちゃんを産んだばかりの近所の若いお母さんの家に行き、お乳をもらいました。そしてそこらを飛び回っているハエの目玉をつぶして、その乳と混ぜます。父の記憶では、なぜか白い乳が鮮やかな朱色に変わったそうです。その朱色の液体で目を洗いました。今では考えられませんが、当時それは目の怪我には普通の治療法だったらしいのです。
 案の定・・・といっては父にも当時の人に悪いのですが、やはり目は余計に痛くなり、黒目は白くなりました。近所の大人たちが集まって腕を組み、「うーん、こいはもう○○ばばん(ばあさん)の所に行かな治らん」と言っています。○○ばばんのことは、父もうわさで知っていて、泣いて暴れて抵抗しました。大人でも喚いてしまうという、とんでもない熱いお灸をするおばあさんで、治療費は焼酎一升。
 泣いて暴れて山三つ超え、○○ばばんの前に引きずられていった父の耳に「うーん、こいはいかん。もう、あんやいと(あのお灸)しかなか。おはんたちゃ、そん子をばしっかい抑えといてくいやん(あんたたち、そのガキをしっかり抑えておいてちょうだい)」と言うばあさんの声が聞こえました。ツボは小指の先。それが思いっきり熱いことは、サルでもわかる。父は残った力を振り絞って抵抗したものの、大人三人に抑えられ、奮闘むなしく小指の先は焦がされました。目から火が出たそうです。ばあさんは「こいで、治っじゃろ。そいどん、一年後、反対の目が全く同じごと見えんごつなる。来年また連れて来やんせ」
 父は疲労困憊して帰路についたのですが、あくる日、目はきれいさっぱり治ったのでした。そして「連れて来やんせ」と言われても「死んでも行かんど」と思っていたのに、やはり一年後、ばあさんの予言どおり、反対の目が見えなくなり、再び騒動が繰り返されたのでした。
 それから50年ほど経ってから、父は私に言ったのです。「おまえ、あのツボを研究せんか?」
 どなたか、目がすっごく痛んで黒目が白くなった方、治験に参加なさいませんか?

季まぐれ通信 54号より

2017年8月

  気まぐれ話 《蝉の青春》

 夏もお盆を過ぎ、暑さもひと段落・・・じゃあなくて、まだまだしっかり夏は続きます。我が家は6階部分にあり、周囲に田んぼや竹やぶや緑地帯があって夏でも窓を開けていると結構涼しいのですが、夏の朝は、暑さと蝉時雨で目が覚めることがあります。今朝、廊下で蝉が仰向けでもがいていたので起こしてやると、「ジジジーッ!」と鳴きながら、ぎこちなくどこかに飛んでいきました。アブラゼミでした。
      蝉といえば、ここ数年クマゼミがアブラゼミよりはるかに数が多いといわれていますが、今年は若干逆転の気配があります。もう50年以上前、私がかわいいお坊ちゃんだったころ、アブラゼミはたくさん捕れるのに、クマゼミはなかなか捕れず貴重でした。当時の記憶をたどると、クマゼミは子供にとってはだいぶ高い位置にいて、それにアブラゼミよりすばしこかったような気がします。これは九州での話ですが、全国的にクマゼミが増えたと聞きます。しかしアブラゼミ優位のところもあり、個体数の増減の理由はよくわかっていないようです。
  理由の一番は、地球温暖化(あるいはヒートアイランド)原因説です。何でもアブラゼミは温帯、クマゼミは亜熱帯地域の蝉なんだとか。他に土中の湿度の影響説などもありますが、いずれもそれを裏切る例があるのです。夏の終わりに木に産みつけられた卵は、あくる年の梅雨前に孵って幼虫になると土中に潜り、数年の間暗い世界で暮らして目も退化する。そして晴れて地上に出てくると2~4週間で逝ってしまう。どちらの期間も根や幹から樹液を吸って生きることははっきりしていますが、じつはそれ以外の詳しい生態は未解明部分が多いのだそうです。
  平均気温が高くなっているのは事実です。ここ数年の日本の気候は局地的な豪雨や日照りなど、穏やかとは言い難くなっています。土中にはモグラ・ケラ・冬虫夏草、地上では鳥やスズメバチ・蜘蛛などの天敵がいます。蝉は団体さんで鳴くので大勢いるようでも、目にできる蝉の数は卵の数よりはるかに少ないのでしょう。

ところで、「青春が人生の最後に用意されていれば、人生はずいぶん違ったものになるだろう」・・・そんなことを言った偉い人がいるそうです。なるほど、なるほど・・・。 おっ! 蝉は、蝉の《青春》は、その通りじゃあなかろうか? 雄は精一杯鳴いていたけれど、恋は成就したのだろうか? 雌は卵を産んで死んだのだろうか? 青春の短さに焦っただろうか? そして、彼らは青春を謳歌できたのだろうか?
  イソップ物語の「アリとキリギリス」は、もともと「アリとセミ」なんだそうです。物語が広まった欧米には蝉がほとんどいないらしく、セミはキリギリスに置き換えられ、日本にもその形で輸入されたといわれています。蝉の文字通りの下積み生活を思えば、物語は違ったものに見えてきます。毎朝私がなんちゃってトレーニングに使っている児童公園で、先日、蝉が飛んできて私の手に当たって落ちました。アブラゼミでした。木々に空蝉、芝の上にアリに引かれる亡き骸が。地中での時間に比べると、彼らの青春の日々はあまりにも短い。
  そうそう、セミ版の最後にはこういう結末の話もあるそうです。アリに軽蔑されたセミはこう言います。「私は好きなだけ歌を歌って、死んでゆく。あなたは私の亡き骸を食べて、生き延びなさい」無常・・・。こんな事を思うこのごろ、まだ暑くとも、そろそろ夏は去ってゆくのでしょう。
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    おまけ《空蝉(うつせみ)》
 蝉の抜け殻を空蝉といいますが、空っぽになった元体を見ると、古人は無常を感じたそうで、多くの歌が残されています。一方、欧米には健康話で述べたように、南部を除いて蝉がいないこともあって、欧米人の脳では蝉の鳴き声は「ノイズ」にしか分類されないのだそうです。もののあわれも、夏の暑さの演出にもなりません。ですから日本で撮った夏の映像を欧米に送る際には、蝉の音をカットすることが多いのだとか。でないと、「せっかく素敵な日本の夏の映像をもらったんだけど、なぜかノイズが多くて、とても残念だった」などと言われかねないというのです。ところ変われば・・・ですね。
 もうひとつ空蝉。空蝉を煎じて飲むと「鎮痛・利尿」などの効能があるそうですが、私は試したことはありません。なんだか耳鳴りがしたり、蜘蛛の巣に絡められる夢を見たりしそうで・・・。
勇気ある方、お試しされたら結果を教えてくださいませ。
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季まぐれ通信 番外編より

2017年5月

  気まぐれ & 健康話《たばこと暫しの別れ》

昔、私はタバコを吸っていました。それもかなりヘビーに。扁桃腺の手術のあくる日も、高熱で入院した日も・・・。しかし30年と少し前からは、吸っていません。
タバコの害がやかましく言われ、タバコ吸いには「住みにくい世の中になった」と嘆く方もいらっしゃるでしょう。ときどき「分かって吸ってるんだから、ほっといてくれ」と開き直り、場所もわきまえずスパスパの人もいますね。 そんなご時勢だからか、このごろよく「どうやってタバコを止めたんですか?」と聞かれます。何人かの方にはお話したことがありますが、ここで改めてお答えしておきます。
まず最初にお断りしておきます。私は今はタバコを吸いませんが、止めた訳ではなく、いつか気が向いたら吸うかもしれません。もっとも、今ではタバコが煙たくて臭くてしかたないので、今すぐに復活することはないでしょう。
30年と少し前のある日、少し早く帰宅した私は、いつものように「ア、ドッコイショ!」と言いながら椅子に座りました。そしていつものように左胸ポケットに入っていたタバコの箱を取り出し、テーブルにいったん置く。右手で一本を引き出して、左親指の爪の上でトントンして唇の間に挟む。テーブルの端に置いてあったライターを右手に取り、眉間に少ししわを寄せてタバコの先に近づけ、カチッと火を点ける。風もないのに、なんとなく左手は炎をガードしています。このあたり、映画のシーンを思い出すように、鮮明に記憶をたどることができます。うーん・・・、渋い!
ところが渋いのはそこまで。どういうわけか・・・、アレレ、炎の横に肝心のタバコがいない。渋いシーンのどのあたりからタバコがなかったのかは、定かではない。最初からなかったのか、途中で落としたのか、まあどうでもよろしい。とにかくそのときは「オッと、渋いのはいいけど、おぬし何やってんだ?」と、改めてタバコを一本出しました。
その時に、なぜだか心の中で声が聞こえました。
「今私は、タバコを吸おうと思ってたのか?」→「うーん、いや、ほとんど自動的な動作だった」。 「毎日たくさん吸ってるけど、それぜーんぶ美味しいか?」→「いや、違う。よーく考えたら、美味しいのは一日に一本か二本だな」。 「じゃあ、その一本か二本のために、おまえは二十本も三十本も自動的に吸ってるのか?」→「じ、じ、自動的じゃない、吸おうと思って吸っているよ」。 「そうか~? 何も考えずにフルオートで動いていたように見えたぜ」→「違うっ! ちゃんと考えて・・・、アレレ? 考えていないかな?」。 そしてまた鮮明な声が・・・。「じゃあ、もしかしたら・・・誰かが私の知らぬ間に、不正プログラムを私の脳に入れた・・・?」→「論理的には、その可能性があるな」
「論理的」と言われると弱い私は、二度目に改めて出したタバコを、一旦箱に戻しました。そして目を瞑り、心の中に私の行動の指示をするプログラムが存在すると想定し、確認作業を始めました。分かりやすいように、フローチャートを引き出す。自慢じゃあないが、今の私はパソコンや周辺機器には全く疎いおっさんですが、この事件のさらに10年程前の学生時代、コンピュータの授業で、乱数表作成や大砲の弾の弾道計算などのプログラムをお勉強したことがあったのです。(はい、しっかり過去形です)
で、目を瞑り、「『たばこ』に関係ありそうなプログラムを、全て抜きだせ」と命令するとー・・・、アララ、出て来る、出て来る。入れた覚えのない『たばこ』に関する細かな指令・・・。先に無意識に動作してしまった「左親指の爪でトントンする」等々。タバコ関連の指令一覧は、「いつもやってるから知ってはいるが、良く考えたら自分で入れたつもりのない」ものばかりでした。
「うーん。迂闊であった。誰がいつの間に・・・?」 ま、侵入者(今風に言えば、ハッカー)と進入目的探しはまたの機会にして、一刻も早くそれらのプログラムを削除しなければならない。私は直ちに「タバコ関連プログラム、全部削除」の命令を入力。すると、「ほんとうに削除しますか?」とご丁寧に質問が来た。敵は芸が細かい。一瞬うろたえたものの、えーい!「実行」と指示をしたら、「テテテテテ」と小さな振動と共に、2秒ほどでプログラムが消去されました。これで一安心だが、念のためもういちどタバコ関連の指令がなくなったことを確認。はい終了!
私は部屋を出て、再び入室しました。「ア、ドッコイショ!」と声を出して座り、自分の意思で左胸ポケットのタバコを取り出し、テーブルに載せました。「さあ、タバコを吸いたければ、タバコ作業を開始しなさい」とはっきり意識して手に命じましたが、私の意志は吸いたくないから手は動かないもんね!もちろん辛くはございません。「クソッ! いつか侵入者を見つけて、まぬけ面をぶっ叩いてやるぞ!」と思いつつ、今日に至っているのでありました。以上、『誰にでもできる(かもしれない)、辛くない禁煙法』でした。
ただ、繰り返しになりますが、忘れてならないことが一点。論理的に言えば、私は吸いたくなったら、タバコを吸うかもしれません。『止めるぞ!』と宣言したわけではないので、吸っても宣言破りではないので、かえって気が楽です。
思えばあのころ、タバコは友だちでした。『なみだくんさよなら』という曲が流行った時、私はよく口ずさみました。『君はぼくの友だちだ この世は悲しいことだらけ 君なしでは生きていけそうにない』・・・と坂本九ちゃんが歌いました。かわいそうな『ぼく』はやがて恋をし、そして涙くんと『しばらく逢わずに暮らせるだろう』と歌は続きます。
理由はともかく、私は友と別れました。恋人のことを『とてもやさしい人なんだ』と歌っていた九ちゃんは、私が友と別れたころ、飛行機事故で天国へ旅立ちました。どんな恋人や友を思いながら歌っていたのかは、もう聞けません。この歌とタバコを重ねる私の思いつきを、彼はどう思うでしょうか?
私がどんな恋をしたのか・・・、それはどうでもよろしい。どうでもよろしいことだけど、そういえば妻といっしょになってしばらくしたころ、タバコ吸いだった彼女もいつの間にか、吸わなくなりました。あ、お話はこれでおしまいです。
そうそう、「どうしてこの話を通信に書いたのか」です。どなたかこの簡単な禁煙法(厳密には禁煙とは違う)を、禁煙希望の方に教えてくださいな。今まで何人かの方に勧めましたが、誰ひとりやってみようとなさいません。以前から募集している『ふんどし実験』と共に、ぜひぜひやってみましょうよってば!!
(*注1.私のプログラム技術等はハッカーが消したようで、痕跡すらありません。残念)
(*注2.後にハッカーの正体と目的を考えてみました。当初はエイリアンかと思っていましたが、真犯人は当時の専売公社と国税局と厚生省。目的は、税収と病人数の維持。タバコ人口がドンと減らないよう、今もハッカーは巧妙に活動していると、私は考えています)

季まぐれ通信 52号より

2017年3月

  気まぐれ話《コノハズク》

コノハズクがいました。場所は緑地公園の南東にある池です。写真を撮りました。距離5m足らずなのに、残念ながら後姿しか見せてくれませんでしたので、あのまじめひょうきん顔は映っていません。でも後頭部がまた味があるんです。フェイスブックに写真を載せましたので、よろしければごらんください。閲覧できない方は、手元に写真がありますので、どうぞ治療所に見にいらしてください。
コノハズクは梟の仲間で、たいがいは夜に狩りをします。ですから昼間に間近で観察できたのは、たいへん貴重な体験と言えます。その日、私はとても幸せな気分でした。

じつはその日の朝、もうひとついいことがありました。毎朝のジョギングの途中に立ち寄る小さな児童公園で、「ココココ・・・」と聞いたことのある音。キョロキョロ探すと、いました、いました。コゲラ・・・小さな啄木鳥の仲間です。意外ですが、図鑑によるとこの鳥、早朝には都市部の公園でも結構見られると書いてあります。でも私が見たのはこれで二回目、数年ぶりです。しかし今回はつがいでしょうか、二羽いました。
よっぽど運か行いがよくないと、こんなにチャンスは続きません。自慢じゃないが私、運はあまりよくない男なので、これはやはり普段の行いがよかったのでしょう。

このコノハズクを見て思い出しました。もう20年以上前に、琵琶湖畔にある自然教育施設で、ガラス窓に衝突失神したコ・コノハズクを保護したことがあります。これは小型のコノハズクで、鳩と雀の間くらいの大きさです。不自然な姿勢で横たわる彼を「かわいそうに」と掌に載せると、失神からすぐに覚めて飛ぼうとします。でも片方の羽が動かせず、飛べません。骨折かと思ったのですが、脱臼だったようです。助けようとしている私の指や腕を、人の気も知らず、鋭いくちばしや爪で噛むは挟むは・・・。「いたたた! これっ! コノハー、私は君の味方だー! 直ちに暴れるのを中止しなさい。ア、コラーッ、放しなさいってば!」と格闘していたら、何だか知らないけれど、普通に羽ばたけるようになっていました。「おー!もしや、私の手は神の手・・・」じゃなくて、どうも勝手に整復されてしまったようです。
「何だ、おぬし飛べそうだな。じゃ、気をつけて帰れよ!」と池の端で放したら、音もなく(ほんとに音もなく)二回ほど羽ばたき、池の上を美しく滑空したらまたゆっくり羽ばたき、やがて夕焼けの空に消えてゆきました。手を振りながら「元気でなー! 礼はいらないよー」と言いましたが、「お礼に来てもいいんだよ」と今でも思っています。

そうそう、まだあります。どこかへ出かけて留守をしていた近所のため池の翡翠が、最近帰ってきました。うーん。これはやはり女神様の合図かも・・・。宝くじ買おうかな。


季まぐれ通信51 号より

2016年9月

  季まぐれ話《トンカラリン》


「唐突ですが、『トンカラリン』をご存知ですか?」
・・・というふうに何人かの方に聞いてみましたが、全滅! どなたもご存じないのでした。コホン!
トンカラリンとはなぞの古代遺跡、それになんと元祖日本古代七不思議のひとつなのであります。
と言ってみたものの、う~ん、ただのご当地自慢の類かも・・・。『日本』を冠してよいものかどうか、若干怪しい感ありです。
 場所は熊本市の少し北にある菊水町(今は和水(なごみ)町)、全長400mあまりの水路様もしくは通路様の構築物です。それは人工の石組みによる60~150センチ×120cmで階段や分かれ道まであるトンネルや、自然の岩の割れ目を利用したと思われる構造物ですが、何時・誰が・何のために作ったのかわかりません。少なくとも江戸時代にはあったという記録があります。
で、不思議の中で一番の不思議はと言うと、昔から存在していることはわかっているのに、肥後藩の記録はもちろん、付近の小さな寺や神社にも何の記録も伝承もないことです。近在の住人も、この遺跡の素性を知りません。近所には古墳群があり、その幾つかとつながっている可能性もあります。ある古墳からは数十本の銅剣が見つかっています。付近は阿蘇山からの伏流水が湧く泉が複数あり、古代には都市のようなものがあったと思われます。念のため申しますが、ここは新興住宅地ではありません。
 私は熊本に住んでいた小学校時代に存在を知りましたが、どこにあるのかも知らないくせに、そのころは全国的に有名なのだと信じていました。やがてそれが熊本にあることを知りましたが、具体的な場所を知ったのはずっと後のこと。
「かの有名な、なぞの古代遺跡トンカラリンを見せてやろう」と妻を連れて行ったのが、かれこれ30年ほど前のこと。予想に反して菊水町に到着しても何の案内も無く、カーナビもない時代、結構苦労してやっと探して、アーラがっかり! 字がやっと読めるくらいの、ヨレヨレの案内板があるだけじゃありませぬか。有名だと思っていたのに・・・。ただモノ自体は少なくとも私には充分見学に値するもので、私と同系統の思考回路を持つ妻も興味を持ちました。せっかく不思議な構造物です。「もしかしたら考古学的に大きな価値があるかも知れないのに、もっと本気で調べてその結果を公にするべきだ」と思ったことを憶えています。
 それで今回子どもを含めた家族全員で行ってみたら、新しめの案内解説板が現地にひとつ立っていた以外、なんと当事と状況はほとんど変わっていませんでした。ただネット上には色んなことが書いてあります。付近では頭蓋骨が不自然に歪むよう育てられたと思われる人骨が出土しており、これは世界各地のシャーマンの住居跡から見つかっている頭蓋骨と似ています。このことからも、シャーマンがこの地で何か神事を行っていた可能性は高いと思われています。
かつて「邪馬台国九州説」の旗頭であった松本清張氏がこの地を訪れた際、「卑弥呼ゆかりの施設で、祭祀に使われたものだ」と述べたため、多くの考古学ファンの間で話題になり、町の教育委員会が騒ぎを収めるために専門家(何の?)を集めて協議したことがあります。そして古代の排水施設だと結論づけたため、急速に熱も冷めました。ところがそのあと大きな水害があった際、トンカラリンにはまったく水が流れなかったため、排水路説は説得力を失い、またなぞが振り出しに戻りました。
さあ、皆さん!トンカラリンは何でしょう??? と、ここまで書いているうちに、私の記憶になぜトンカラリンがしつこく残っているのか、突然思い出しました。50年ほど前、熊本に住んでいたころ「ロバのパン屋さん」が不定期に町を廻っていました。やせたロバが大きなパンのガラスケースを引っ張って来るのです。そのときのテーマソングが「ロバのおじさんキンカラリン、キンカラリンロンやって来るー♪」だったのです。ウン、納得! アレ?トンカラリンじゃないですね。ワッハッハ!


季まぐれ通信49 号より

2016年7月

  気まぐれ話《仙台のこと》


仙台に行ってきました。観光ではなく、日本小児救急医学会との共催で『SIDS家族の会オープンフォーラムin仙台』を開催してきました。詳細は別の機会に述べさせていただきますが、『死から始まる医学』の方策を提案してきました。成果はとても満点とはいきませんが、厳しい時間制限等の条件の中ではそれなりの出来だったと思います。
さて主目標には何とか達したし、せっかくの仙台だし、行く前に散々勧められた「牛タン」を食べ、青葉城跡に行ってきました。そこでおもしろい発見をしました。あちらで見た幾つかの伊達政宗公の銅像や肖像画は、どれも独眼竜ではないのです。不思議に思って解説のおじさんに「仙台で治世中、初めは両目があったのか?」聞いてみると、「遅くとも五歳の時には右目は失明していて、八~十歳のころ幼馴染の家来の手で処理してもらった」とのこと。で、独眼でない理由を聞くと、それは遺言のせいだとのこと。後世に「政宗は醜い顔ではなかった」と伝えるよう正宗公が願ったというのです。
自分で手術したか家来がしたか、どっちにせよ麻酔のなかった時代です。相当な度胸が必要で、それだけでも尋常な人にはできません。「私もですが、多くの人たちが『独眼竜』を格好良いと思っているのに」と言いますと、「政宗公自身は悪い目があるときも摘出してからも、醜いと思っていた。そしてコンプレックスの塊だった」とおっしゃる。そして自らくりぬいたと言うのは作り話だと・・・。ちょっと驚きと残念を味わいました。おじさん!あなたは彼がいたから、今の仕事をしているんでしょう? そんな彼を馬鹿にして、得意になってはいけませぬ。
ところで普通の城下町は、城の防御力を上げるために、道路が変に角かくに曲がっているものですが、青葉城はもともとあった川を堀に、断崖や山を壁にうまく利用していて、城の前に近代的な発展に向いた整然とした町並みが、当初から計画的に広がっていきました。そしてその後も発展し、今も東北の雄たる都市です。政宗公の先見の明には、もっと光を当てて良いと思います。戦国から江戸までの複雑な力学の中を生き抜いた政宗公を、解説のおじさんみたいに日和見とか気が短い我侭人などと言う人もいますが、私は好きです。混乱の中で領土領民を守り、それでいて文化教養に優れ、太平の世には農業・商業の発展に力を注ぎ、伊達な料理人でもあった領主。全国的には「独眼竜」で名が通り、仙台の地でのみ見られる双眼の姿。かつての殿様の遺言を、領民の子孫は実直にというより自然に守り続けているのだと私は思います。政宗公は、かの地で未だ尊敬され慕われているのです。
ちなみに「隻眼の姿を残すな」という遺言の理由は「たとえ病で失ったとはいえ、親よりいただいた片目を失ったのは申し訳ないこと。隻眼の顔を後世に残すのは親不孝である」だったという説もあります。案内のおじさん!どうぞ自虐はやめて、郷土の歴史を誇りに思ってくださいな!




郷中(ごじゅうもしくはごちゅう・ごうちゅう)教育・制度

2016年03月

 

季まぐれ通信48号より

2016年3月

  気まぐれ話《》


薩摩にはかなり古い時代(戦国時代頃)から、郷中(あるいは郷)という組織がありました。これは男の子の教育制度、広い意味で社会制度です。郷中は稚児(ちご)組と二才(にせ)組から成り、稚児組は更に小稚児と長(おさ)稚児に分かれています。5~9才が小稚児、10~15才が長稚児、15歳を越えるとニ才です。
武家の男児は、朝家を出ると郷中に入ります。郷中は子どもだけで運営され、二才の中で指導的な立場にある二才頭(にせがしら)が監督しますが、頭は個々に直接指導・注意をすることはなく、必要があればその組の年長者を通じて伝達します。子どもたちは組の中で話し合い「話を聞く価値のある大人」や先輩を選び、その家に押しかけて説教をしてもらい、その話をもとにわいわい議論(詮議)します。また先輩から四書五経や兵法を学び、武道や農作業などを指導してもらい、武士社会の礼儀作法も郷中で学びます。
教科書は教える者が暗記できていれば、数が少なくて済みます。やがて自分が教える立場になることがわかっているので、学びに熱が入ります。薩摩藩はこの制度のために、お金を掛けずに藩の体制を維持でき、優秀な人材を得ることができたと言われます。二才組で組織を自在に運営できる実力があれば、下級武士の子弟でも藩主に意見書を出すことができ、また深く長い付き合いのある仲間は社会に出てからも大きな力になりました。幕末に活躍した薩摩の志士たちは、郷中から輩出されました。ご存知西郷さんは、郷中で皆に深く信頼され、普通より長い間二才頭を努めました。
ところで、ボーイスカウトをご存知の方はお気づきかも知れませんが、この郷中制度はボーイスカウトに少し似ています。薩摩藩は幕末にイギリスと小さな戦争をして、圧倒的な戦力の差であっさり負けていますが、旗艦(船団の指揮官が乗る軍艦)を集中的に攻撃して指揮能力を奪い、イギリスに「薩摩、侮るなかれ」との印象を与えたと言われています。その敗戦から薩摩は軍事や産業面で多くを学び、イギリスを学ぶことの多い友人とみなします。イギリスのほうでも、貧弱な武器で戦いを挑んだ薩摩に、蛮勇以上の精神と兵法の存在を見て多くを学んだと言われます。
ボーイスカウトの創始者ベーデンパウエル大佐が、その組織つくりに郷中教育の制度を取り入れたという話があります。現在、正式にはこの話は「事実ではない」と言われていますが、私はまったく無関係でもないと思います。郷中制度は秀吉の朝鮮出兵が長引いて、国内に厭戦気分が満ち青少年の生活も乱れてきたころと、江戸時代の元禄泰平のころに引き締められ、そしてしっかりした形が出来たと言われています。このあたりもボーイスカウトの歴史に似ています。
スカウトには掟や誓いがありますが、郷中にもいくつかの決まりがあります。「ウソをつくな」「自分より弱いものをいじめるな」「負けるな」 ことばは違いますが、精神は同じだと思います。おっと、郷中にはこんな決まりもあります。『刀は抜くな。もし抜いたなら、ただで鞘に収めるな』
西郷さんは厳つい顔と体ながら温厚な人柄で、また幼少のおりに刀で腕の腱を傷つけていて、刀を振り回したという逸話はありません。しかし一度だけそれに近いことはありました。江戸城無血開城の交渉が崩れそうなとき、「そいはこん短刀一本で、用は足いもす」(そのときは、この短刀一本で用は足ります。そういう覚悟でことに臨まねば、道は開けない)と言って懐から短刀を出したと言われています。こうして無駄な戦から江戸の町を救った西郷さんが、西南戦争で武士の世を終わらせるとは悲しい運命ですね。
なお「二才」は今も言葉が残っていては、例えば「美男・美女」のことを「よか二才・よかおご女」と言いますが、一方「思わず噴出してしまう、まじめおかし顔」をさす言葉としても使われます。そういえば、お坊ちゃんとして里帰りしていたころの私は、よく「よか二才どん」と呼ばれたなあ・・・。どっちの意味だろう? ま、それはどうでもよろしいが、郷中の精神はまだ生きていて欲しいと、私は思います。古い神社の境内などには、掟が書かれた板が立ててあるそうです。




命拾いしました

2016年01月

  《命拾いしました!!》

季まぐれ通信47号より

2016年1月

  気まぐれ話《命拾いしました!!》


まいど度々の「恥ずかしながら話」ですが、反省の気持ちを込めて、「恥ずかしながら」書き留めておきます。
 正月の2日・3日の2日間、家族全員そろって某所に某鉱物の採集に行ってきました。正月早々に2日連続で石採りとは、これははっきり言ってアホですね。で当然のごとく、アホの報い事件が発生!!
 2日目の採集終了後、ズリ山(*)から下りる際に高さ3m程の崖から転落、背面着地したのです。結果的には、骨折・脳挫傷などは無く、右上腕骨上外方及び右腕の尺骨中央付近の打撲傷だけで済んだのですが、それはいくつかの偶然による幸運な奇跡と考えるべきです。 幸か不幸か、奇跡の着地は家族の誰にも目撃されなかったので、「いやー、今降りるときの最後のところで掴んでた枝が折れてねー、滑ってこけちまった。ワッハッハ」とごまかしてしまいました。ところがその10分後に撤収する段になって、胸ポケットに入れていたサングラスがなくなっているのに気付き、現場に長男と一緒に捜索に行った時に彼が言いました。
「こっこっこれは・・・、父さんこれって、滑ったのがあの上で、あんなとこから落ちたん?」
「うん、まあそうじゃ。これで無事な父は偉い」
「偉いじゃないでしょ! マジであそこから? よう怪我も何もせんかったな。これって、下手したら死んでるで。眼鏡が不幸を持っていってくれたんや。正月から、もう今年半年分くらいの幸運をいっぺんに使ったんちゃう?」 はい、仰るとおり。あんたが正しい。父が偉いんじゃあないです。そう考えるべきですよね。
 偶然による幸運の条件は、幾つかあります。掴んでいた枝が折れたあとの最初の1m程は、①尻もちバウンドして落下スピードを若干落してくれた。その後体がほぼ水平状態になりながら垂直落下したが、②着地点は小さな岩のかけらが敷き詰められた斜めベッド状態になっており、その上に溜まった多くの枯葉がベッドのクッションになった。③またベッドの小さな傾斜が横滑りさせてくれたせいで衝撃を和らげてくれた。また④幸いその付近だけ大きな岩塊がなく、致命的な打撲をしなくて済んだ。⑤テレビの正月映画特集でジャッキ-・チェンの派手アクションものを見ていたので、無意識のうちにピッタリのイメージトレーニングができていた。
 はい、今回の事件の反省は充分しております。①に関して言えば、 「頭はすぐ二十歳に戻っても、60年以上も使用した体のほうは、筋力・柔軟性・反射神経などは格段に落ちているのよ!」 という妻の意見は正しい。②③④に関しては、私が落ちながら場所を選んだのはなく、全くの偶然です。これらの事を常に頭に置き、謙虚でなければならない。そう、そう。うん、賛成!(どこか軽いなあ)
 しかし私は反省力に乏しく、またおめでた性格でして、最後は⑤あたりに落ち着いてしまいます。そして「うーん、私ってまだまだ結構やるじゃない。的確な受身が、無意識のうちにできている」なんてことになってしまいます。あー・・・、この調子では、また何かやるかなー・・・。
 うーん。幸運を前払いしてもらった私には、これから半年間はいいことがないのかなー・・・?

* ズリ山:鉱山で掘り出した石の中から目的の鉱物を含む石を選鉱し、あとに残った石(ズリ)が集められて山や土手になった場所のこと。鉱物が石炭なら炭鉱のボタ山も、ズリ山と言ってもいいでしょう。




季まぐれ通信46号より

2015年12月

   気まぐれ話《五省(ごせい)》


 歳の暮れになると、「自分はこの一年、何をしてきたのだろう?」と思います。忙しさを言い訳に、その答えどころか、ここ数年はそんな問すらどこかに消されています。齢重ねると・・・という言葉は、いくつくらいから使えるのでしょう? 耳が遠いための失敗や、行動のどんくささ故のドジで、若い兄ちゃん姉ちゃんに怒鳴られてむっとすることはありますが、それにはこのごろあまり腹が立たなくなりました。彼らは、自分にかかる迷惑に対し、ただ我が侭に怒っているだけ。私の間違いを真剣に諭して、叱ってくれているのではありません。齢重ねると、叱ってくださる年上の方は年々少なくなる・・・、そう感じるのは、まだまだ若いつもりの甘えだろうか・・・?などと考えているうちに、歳が改まります。
 ところで旧海軍兵学校には『五省』という伝統がありました。これは自身に対する問いかけです。毎晩、自習終了5分前になると、ラッパの合図が鳴ります。すると学生は自習をやめ、机の上を片づけて瞑目静座。やがて当番の学生が『五省』を発唱し、各自心の中で反省しました。誰かに反省の内容を話し、それを誰かが叱ることはありません。五省は個々の学生の心の中で行われます。
 「海軍」と聞いて「軍国主義」しか連想できない人は放っといて、ちょっと考えてください。一日の終わりに、五省、いえ一省でも行ってみていいのではないでしょうか? 思えば、私はずっと五省をさぼっていました。私の今年の反省・来年の決意・・・・、それは『五省』です。

【五省】
一、至誠に悖(もと)るなかりしか
二、言行に恥ずるなかりしか
三、気力にかくるなかりしか
四、努力に憾(うら)みなかりしか
五、不精に亘(わた)るなかりしか


*二次大戦後、GHQは日本の伝統・因習、特に軍隊に関するものは徹底的に否定しました。未だにその影響は完全に消えたとは言えません。しかし戦争で実際に日本と戦った軍人の中には、「敵ながら尊敬すべき点がある」と思った人たちがいます。その中に『五省』に感銘を受たあるアメリカ海軍幹部がいました。米海軍兵学校(通称『アナポリス』)には以下の英訳が掲げてあるということです。(日本語に再翻訳したものと共に記しておきます)
Hast thou not gone against sincerity? - 真心に反することはなかったか
Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds? - 言葉と行いに恥ずべき所はなかったか
Hast thou not lacked vigour? - 精神力に欠けてはいなかったか
Hast thou exerted all possible efforts? - 十分に努力をしたか
Hast thou not become slothful? - 全力で最後まで取り組んだか
(訳: 松井康短)





季まぐれ通信45号より

2015年11月

    《ゴースト》
 平成27年、秋のお彼岸を過ぎたある日曜日、夕方7時から8時の間、琵琶湖東北端の長浜にある豊公園にて、妻と私はゴーストに遭遇しました。・・・と書き出したら、怪談じみた冗談かと思われるかもしれませんが、これは全くの事実なのです。もっともその時点では平和な時間を過ごしていて何もわからず、気づいたのは帰宅後のこと。現地で撮った写真をパソコンでチェックしていて、「それ」を発見したのです。
長浜は秀吉が最初に城を構えたところ。戦国の昔から明治の頃まで、かの地は交通の要衝であり、戦略的にも経済的にも極めて重要な場所でした。それゆえ多くの血が流され、様々な悲劇の記憶が何層も重なる場所でもあります。記憶の最上層である現在は、近代的なビルの中に明治・大正風の建物、きれいな芝やタイルに覆われたレトロな町並みとなり、観光客やアベックが楽しそうに歩いています。
さて、妻と私はその長浜で予定の用事を済ませ、近くにあるはずの「ユタカコウエン」に行ってみようと、夕闇迫る長浜城址付近を歩き回りました。妻が買ったばかりのカメラで、付近を撮りまくっている間、私はある石碑を探しました。周辺は記憶にあった景色とはずいぶん変わっていて、石碑は見つかりませんでした。公園の中央に新しい天守閣があって、そこが石碑のあった小山だったのかもしれません。
じつはもう30数年も前のある冬の雪の夜、まだ独り者同士だった私と妻が、その長浜にある径20m位の小山で「キャハキャハ」と雪投げをして遊んだことがありました。小山の頂のモッコリした雪を払うと「豊公園」と書かれた石碑が出てきて、私たちはそれを「ユタカコウエン」と読みました。(本当は「ホウコウエン」です)
という経緯があったので、夕闇から夜の闇に変わり行く湖畔の公園デートは、私たち夫婦にはなかなか趣があって良うございました。で、問題のゴーストさんは、湖畔の遊歩道を歩く私の後姿を写した写真のうちの二枚にいらしたのです。半ば葉を落とした街路樹に寄り掛かる乙女の長めの衣が、風に揺れているようです。長浜のもう少し北にある余呉湖には天女の羽衣伝説があり、妻はその羽衣かと思ったそうで・・・。
いえいえ、恐い話ではありません。種を明かしちゃいます。写真に詳しい長男に画像を見せたところ、「アー、これゴーストだよ」。「ん? 日本語で言いたまえ」と申しますと、「日本語で言っても『ゴースト』なんだってば。・・・これ写真用語でね、ホレ」と、図を書いて詳しく解説してくれました。画面全体の光量に対して、コントラストの強い光源があると、レンズの反射の関係で画面の対角線上にぼんやりと「光の影」のようなものが写ることがあるそうです。これ、よく心霊写真になるのだそうです。幾つかの例を画像で見せてくれましたが、それは光を表現するテクニックとして使われることもあるとか・・・。妻も私も、ヘナヘナと座り込んでしまいそうでした。いえ、別にネットやテレビに投稿しそこなったというのではありません。もう一度ユタカコウエンに行って、目に見えぬゴーストに聞いてみたかったのです。「何が言いたいの? 私に何かして欲しいの?」
  がっかりしたけれど、また現地に行ったら、答えはないかもしれませんが問いかけてみましょう。あまり耳が良くない私なのですが、じつはあの時、耳元で誰かに何か聞かれたような気がするのです。



季まぐれ通信44号『終わり話』より

2015年10月

   《彼岸花のころ》
 私の住まいの北の窓から、溜め池と三枚ほどの田んぼが見えます。お彼岸の一週間くらい前から、その田んぼの畦道が鮮やかな赤に染まりました。彼岸花です。そこで野良仕事をしていらっしゃる農家のNさんに、毎年お願いして少し分けていただき、食卓と治療所に活けています。Nさんはいつも「田上さん、ほんま彼岸花好っきやなー」と笑います。
 そのとおり。私は彼岸花が好きです。この花は、夏のたぶんとても蒸し暑い畦道の下で、秋を迎えるための手の込んだ準備をしています。どんな彫金作家も考えつかない繊細で複雑な造形、化粧の必要がまったくない完成された顔。彼女は複雑な花を数本の細い蕾として丁寧に折りたたんでおき、彼岸の前になるとなんの前触れもなく、凛とした茎に乗せて地上に押し出します。
 美しい薔薇は「私に手を触れたら、痛いわよ」と言います。彼岸花は「触っても血は出ないけど、ごめんなさい。私、毒があるの」と、手を触れるのを躊躇させます。そして文字通り花の命は短くて、ほどなく美人の幽霊みたいな姿になります。この美人、世に出て何か思いは叶えられたのでしょうか?
 以前にもこの欄に書きましたが、彼岸花は毒があっても、じつは食べることができるそうです。毒は水溶性のもので、茎は細かく刻んで適当に叩き、ざるに入れて流水にしばらくさらす。球根は摩り下ろして水を混ぜて沈殿させ何度も水を替えると毒は流れてしまうそうです。茎には栄養はほとんどなさそうですが、ものの本によると、その昔大勢の人が亡くなるような大飢饉の際に、この花の茎や球根が人々を救ったとか。また非常食として残すために、各地ごとに花にまつわる悪いうわさを意図的に広めたのだとか・・・。畦道やお墓に多いのは、この理由のほかに、田や墓を荒らすモグラやねずみを近づけないためと言われています。
 この毒、強烈な下痢をするくらいで、トリカブトのように人を死なせるほどのものではなく、使いようによっては咳止めや利尿剤としての効能もあるそうです。「じゃあ、処理して食べてみれば?」と言われても、飢饉に出会わないとちょっとその気になりません。どなたか試してみます? ちなみに球根をすりつぶして油紙に塗り、足の裏に貼って寝ると、頭痛・高血圧・不眠症などに良いらしいです。

カッター漕ぎました・・・のその後は?

2015年07月

  《カッター漕ぎました の顛末》  2015年7月12日、大阪港で行われたカッター競技会の顛末です。成績を申せば、またも一回戦敗退。ただ今回は、短いレース時間の中で「ん? もしかして・・・!」と思う瞬間がありました。回頭のときに「今、ダッシュすればトップに立てる」と一瞬思えたのです。私にとって2回目のレースということで、少し観察する余裕があったのか・・・、いえいえそれより実際少し早かったのですってば! けども・・・結果は奮闘むなしく、先行の艇を抜くことはできませんでした。
 負け惜しみを言うようですが、本当に結構良い線いっていたのですよ。何しろ私の乗った艇は、若者の漕ぎ手が多かった(はい、私を除いてです)とはいえ、当日寄せ集めチームです。それが選抜チームと、一秒ほどしか違わないタイムだったのです。ちょっとくらい自分を「ヨシヨシ」してやってもいいと思いません? もっとも私はダッシュどころか、ただただ櫂を流さぬよう、必死で気張っていただけですけど・・・。
さて、「カッター」については前号で簡単に解説しましたが、今年42年ぶりで漕いでみて、とても良い気分でした。大いに日焼けしました。春に始めて、6月にはすでに肌が焦げて痛んでいました。2回目のの競技会の後はふくらはぎが焼けて焼けて、痛んで痛んで・・・えらい辛かった。なのにアレレ、なんだか懐かしい思いが。
 競技会の後は、恒例になっているらしくタクシーワンメーターで近くのクラシック銭湯へ。あんな銭湯・・・、大阪港のすぐそばにあるんですね。とても懐かしかったです。
懐かしいといえば、「この痛み、私は知っている」と心の声。 単なる日焼けではない、心の小さな痛みと後悔を含んだヒリヒリ・・・。「この心の小さな痛みなあに? 私の夏は、もう遠くへ行ってしまった」 いえいえ、そんな格好いいものではないのですが、レースが終わった後に今年初めて見た入道雲の丸い肩のあたりが、何だかさびしい後ろ姿の肩のように見えました。心に浮かんだのは「あー、今年の夏は終わった」という一言。

 今年一つ目の台風が通り過ぎ、蝉の合唱が始まり、これからが本格的な夏だというのに、このちょっとおセンチな感覚はなんでしょう? 前号の健康話≪サボり脳とからだ≫で少し述べましたが、私たちの脳や体は、もちろん経年劣化はありますが、それよりサボリに対して正直に反応し、鈍(なまり)ります。そのなまった体と脳が、このたびほんの少しだけ覚醒したのでしょう。大学OB会チームの中で同期生は数名ですが、彼らとの懐かしい話、それに懐かしい話し方などが添加剤となり、遠く過ぎ去りし青春のちょっとセンチな部分を思い出したのかもしれません。え?どんな部分かって? はい、私はもう忘れました。都合の悪い部分は、記憶回路が整理してしまったのかもしれません。だとすれば、部分的ではありますが、私には忘却力という能力が備わってきたのかもしれません。
    

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カッター漕ぎました

2015年05月

  《カッター漕ぎました》  2015年5月10日、神戸メリケンパークで行われたカッター競技会に参加してきました。大学のOB会選手として、前週に42年ぶりにオールを持ってみると「意外にいけるじゃん」でしたが、いざ本番となると、私の艇は善戦虚しく予選敗退。ん~、残念! ・・・と、こう書いても、すぐに「ほー、それはお疲れさん」とおっしゃる方は少ないでしょう。
 『カッター』というのは、かつて客船や軍艦などの大きな船の横っ腹にたくさんくっつけてあった小船で、短艇とも呼ばれます。船に何かあった際の乗員乗客避難用の船で、単純に人をたくさん乗せるためにのみ合理性が使われ、速さ・快適さ・効率などは考慮されていません。漕ぎ手はサイズによりますが、6~12人ほど。いい加減な記憶ですが、大きなものでは定員が60人くらい(つまり芋を敷き詰めるがごとく乗せる)だったと思います。ですから救助船に早く救助されなければ、この船での長い航海は、漕ぎ手にも乗客にも悲惨です。
 先に「かつて」と書いたのは、カッターは装備としてはすでに過去のものになっているからです。今の大きな艦船には自動的に膨らむテント付きゴムボートの装備が義務付けられていて、そのボートには数日分の食料・水・船外機・燃料・自動発信の無線装置などが備わっています。
 それでは現代のカッターの仕事は何かというと、海上訓練および競技会です。で、この日私は、はい、残念でした。負け惜しみを言うようですが、負けても気持ちよかったです。
 このカッターさん、漕ぎ手と艇長・艇指揮が一体にならないと動きません。一人でもわがままやさぼりがいたら、速いどころか前に進むこともできず、場合によっては衝突や沈没の危険もあります。しかし8人の息がピッタリ合えば、カッターは飛び魚になります。頑張って漕げば、掌やお尻の皮が剥け、あくる日には腕も背中も足も痛くて、歩き方がおかしくなりますが、それがどうしたバカヤロー。あ、これは失礼しました。あー、気持ちよかったんです。
 なお年齢的には私はシニアと申しますかレジェンドチームですが、編成上の都合により普通チームでの参加になりました。次回はわかりません。ちなみにシニアチーム・女子チームは、それぞれ15・27チーム中2位と3位でした。
 次回のレースは、7月12日(日)、海遊館のそばです。いつもの早朝二日酔いジョギング&腕立て伏せに加え、3月からは週一回のマシントレーニングも始めましたので、一回戦突破はできるかな?


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タンポポ

2015年04月

  《タンポポ》  タンポポや蓮華を摘んできて、小さな一輪挿しに活けました。少し前には踊り子草、すみれ、もう少し前にはよく見るけど名前を知らない青い花。今の季節、路傍の小さな花々が、治療所の机や壁のあちこちに控えめに咲いていますので、どうぞ探してみて下さいませ。
 今年は桜がいっせいに咲き、八重も続けて咲いて散ってしまい、ゆっくり花見をすることができませんでした。桜の頃、我が家では夜8時ごろに待ち合わせをして、誰もいない公園や並木の桜の下をビール片手に歩きます。幸いこの花見だけは二回できましたので、まあ良いかと思っています。団地の中の小さな公園はライトアップもなく、頼りない街灯だけしかありませんが、なかなか風情があります。
 思い起こせば最初は夫婦だけ、それから幼い子を抱いて、やがて走り回る子ども達に「これこれ、こけるよ!」と声をかけながらのささやかな花見も、また夫婦二人だけになり・・・、なぜか今年はその先もなんとなくボーっと思うような思わないような・・・。あらら・・・、満開の桜の下は、そんな事を考えるための何か特別な演出が準備されているのでしょうか?
 ところでアメリカ暮らしが長く、欧米の文化に詳しい方がおっしゃっていました。「アメリカ人が日本の家に招かれ、通された部屋には物が何もなく、床には掛け軸が一枚、壁の途中の一輪挿しにはてっせんの花が一厘。そして出てきた茶菓子が黒漆のお皿に羊羹一切れ・・・これ、いけません。あちらの人にとっては『なんとケチでしみったれたやつだ! 俺のことを馬鹿にしてるのか!!』ということになりかねない」 と。 じゃあどうすれば異人さんの機嫌がいいかというと、「花はなるべく派手なものを団体でゴソッと盛る。お菓子はポップコーンでもキャンデーでもポテトチップスでも、これもガバッと大皿に盛る。 侘・寂??・・・ワサビと辛子はわかっても、ワビサビはなかなか伝わらない。派手なのが一番!」とのこと。
  治療所を訪れる皆様には、そんなケンカを吹っかけてくる方はいらっしゃいませんが、どう見えるのでしょうか? ま、ケチと言われたら、はい、ケチですけど馬鹿にはしていませんので怒らないでください。それに散らかっていて、侘・寂はございませんね。ま、部屋の中の春を観察されたお帰りには、「江坂という結構な街中でも、歩道の舗装の割れ目などに春は顔を出しているかも・・・」と考えながら、このあたりを歩いてみてください。ただし車にひかれたり、看板などに頭をぶつけたりしないよう、お気をつけてくださいませ。


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られやすい人

2015年04月

  私が「お巡りさんに声を掛けられやすい人」らしいということは以前書いたことがありますが、じつはどうやら、もうひとつありがたくない特徴をもっているようです。先日通勤途中で、カラスの○○爆弾を落とされました。昨年も一度は命中、一度は1mの至近距離でした。考えてみれば大体1~2年に一度は、被害にあっています。 そうそう、少し前には後ろから急降下爪グァシ攻撃を頭に受け、左側頭部に5cmの傷をつけられたこともあります。このときは恐らく彼らのねぐらの竹薮を伐採しいていた作業員と間違われたのだと思われます。でも爆弾に関しては、私には何の落ち度もないと思うのです。あちらさんにもそれなりの事情はあるのでしょうが、命中後にわざわざ電線に留まって、カーカーと鳴いて自慢するのはあんまりではございませんか。
ということで泣き言を述べてしまいましたが、もうひとつの「られやすい」特徴は、そうです私はカラスにおちょくられやすい人なのです。 「何で私が!」と思いつつ、私は腕と太腿と胸に○○を付けたまままっすぐ治療所に行き、服を着替えて汚れを洗い落とし、そのまま宝くじを買いに行きました。はい、ウンがついていることを祈って・・・(まいどスカです)。そして帰りに鶏肉と葱を買い求め、じっくり時間をかけて、焼き鳥を作って食べました。はい、わかっております。カラスの仇を鶏でとは、鶏さんに「何でわしが代理なの?」ですね。


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ナフタリンの人

2015年04月

  《ナフタリンの人》
 私は鍼灸師をしている。ある日「腰が痛くて歩けない人を診て欲しい」と、往診の依頼があった。行ってみると、80代後半の、声だけ元気なおばあさんが待っておられた。
 おばあさんは数回の往診のあと、ヘルパーさんと散歩ができるようになった。その後も時々電話がある。「センセ!こんだ、肩が痛とうなった。来てや!」 そこでまたおじゃますると、おばあさんは何がどうおかしいのか、いつもまず最初に口に手を当て、「クフフ」と笑う。しばし笑って落ち着くと、それから生まれ故郷や疎開先での話、亡くなっただんなさんの話、いくつかの出会いと別れ、その後の人生、子どもや友人などの話をする。
 そして「わたしはな、今が一番幸せ。長いこと生きとると、いろんなことがあるの。でもほんと、わたしな、いつも良い人に囲まれてな、生きてこれたの。今は、なーんも心配要らん。もうお迎えを待つだけ。今が一番幸せ」そして最後に「あー、気持ちよーなった。もうどこも痛うない。ほんと、今が幸せ」と言う。
 もっとも「もう痛うない」と言っても、私の治療でおばあさんの体がよくなったわけではない。彼女がそう思っているかどうかはわからないが、かってに話をして、自分で元気になるのである。私は話の聞き役に過ぎない。
 しかし「今が幸せ」は、本当のことだろう。おばあさんは話しながら、ときどき涙を流す。おばあさんの90年近くの人生には、泣き明かした夜が、いくつもあったはずだ。一番幸せな「今」の中にも、きっといくつかの後悔がある。
 夏のある日、呼ばれて行ってみると、おばあさんはご機嫌だった。そして「今日はとても元気!でもな、これを渡そうと思って来てもらったの!」と言って、某デパートの包装紙で包まれた箱を渡してくれた。私は恐縮して頂戴した。聞けば昨日ヘルパーさんと、梅田の○○デパートまで、わざわざ行って来られたとのこと。お中元の季節で、大変混み合っていたらしい。
 私はおばあさんに、要らぬことを言った。
「この頃は世の中便利になっていましてね、お中元は電話一本でできるんですよ。頼めばカタログを送ってくれるし、自分の目で選びたければ、ここの近くに支店があるからそこで品を選んで、そこから直接送ってくれますから楽ですよ」
するとおばあさんは言った「あのな!私は歩けるようにしてもろうて、そのお礼に自分の足で○○デパートに行って、○○デパートのお姉さんから買うて、そしてセンセに『ありがとう』ちゅうて、この手で渡したかったの!それにわたしこんな時はな、昔から梅田の○○デパートやないといかんの!」
 大阪駅前がバラックだらけだった頃のことを、おばあさんは話してくれた。決してお金持ちではなかったおばあさんが、この何十年のうちに○○デパートで、どのくらいの買い物をしてきたのかわからない。たぶんそんなに多くはない。きっと特別の時に、特別の、そしてささやかな買い物をしたのだ。おばあさんの人生はゴージャスではないが、いつも「今」のささやかな幸せを見つけてきた。その確認が、○○デパートでの買い物なのだ。
 おばあさんは、昨日きっと上等のお出かけ用の服を着て行ったに違いない。ここ何年かでずいぶん体が小さくなったそうだから、めったに着ないお出かけ用の服は、少し時代遅れで、少し体に合わないかもしれない。そう思いながら、ふと横を見たら、壁にそれらしい服がかけてあった。微かにナフタリンの匂いがした。
 私はおばあさんの足に鍼をしながら、つまらぬことを言ってしまったことを恥じた。おばあさんは平坦ではなかったであろう人生を、また「クフフ」と笑いながら話した。そういえば私の世代も昭和30年代は、普段は継ぎ当てのついた服を着て暮らし、デパートに行くときは、いいべべを着たものだ。
 私はおばあさんの話から、そのころの○○デパートの周りの風景を想像した。・・・若き日のおばあさんが精一杯のおしゃれをして、デパートの入り口に立っている。何かのお祝いを買いに来ているのだ。深呼吸をして入る。店員のお姉さんに何か話をして、いくつかの品を見せてもらい、だいぶ迷ってから何かを買った。そして○○デパートの包装紙で包まれた箱を、おばあさんは大きな風呂敷でまた包む・・・。
 そんな勝手な思いの走馬灯を回していたら、私の目は潤んできてしまった。我に返ると、おばあさんは手を口に当て、「クフフ」と笑っていた。
 時代は移り、○○デパートも変わっていく。だがおばあさんにとって、○○が特別であることは変わらない。そしてこんなおばあさんは、きっと一人や二人ではない。
 デパートのお姉さんに申し上げたい。○○デパートには、お金持ちの人や、最新のファッションに身を包んだハイカラな人がやって来る。もちろん商売だから、お店は彼らを大事にすればいい。しかし、ナフタリンの匂いのする、少し体に合っていない服を着た人が来たら、どうかその人にも一番の笑顔で接して頂きたい。その人は高い品を買わないかもしれない。だが大事な誰かのために、あなたの薦める品を買いに来ているかもしれない。ナフタリンの人たちは、一番の笑顔で迎える価値がある。


(*今回は、ちょっと大きな声で訴えたいので、文体が硬くなりました)


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節分の鬼

2015年02月

  《節分の鬼》
 節分に豆まきをしました。テレビで見るような大仰なものではなく、小さな部屋に合わせた小さな声で、部屋からベランダに向かって「鬼は外」、ベランダから部屋に向かって「福は内」というふうに、ささやかに行われる豆まきです。
 思えば、家にいる長男がもう26歳ですから、ええ歳こいた大人三人で、「オニハ~ソトーッ!」は滑稽かもしれませんが、我が家ではもう30年ほど続いている行事です。「あるとき」までは別に強いこだわりがある行事ではなかったのですが、それからは意地になって続けています。「あるとき」というのは、その長男が3~4歳だったでしょうか、保育園児だったころの節分の夜です。あの日私は、お菓子屋さんで豆を買い、そこでもらった鬼のお面を玄関前で顔に被せ、ピンポン・・・「ガオー!鬼だぞーっ!」とやりました。事前に妻とは打ち合わせをし、豆も用意してあったのに、息子はキョトンとしたまま固まっていました。彼に「保育園で豆まきしなかったの?」と聞きますと、「豆まきしない。みんなで食べた」と答えます。で、「食べる前に、鬼さんに豆を投げたでしょ?」と聞きますと「鬼さんの絵みたいな赤い顔をしたおじちゃんが悪い人とは限らないって。豆まきは人種差別だよ。いじめちゃいけないんだよ」と先生方に言われたというのです。
 心のひねくれたお父さんは、即座にこういいました。「父は、その考えは間違っていると思う。いいか、『生まれつき悪い人や、悪い人種』というものは無い。最初から鬼として生まれる人もいない。でもね、人はだれでも心の中に優しい心も鬼の心も持っているんだよ。じつは父さんも母さんも、そして君も、心の中に鬼の種は持っているんだ。自分たちや子どもの心の鬼が大きく育たないように、父さんたちはがんばらなければならない。節分の豆まきは一年に一度、そのことを忘れないように、確かめるための行事なんだよ。だから豆をぶつけられるのは、外の鬼さんだけじゃないんだ。自分の心に隠れている鬼にむかっても『コラッ!お前の出番は無いぞ!』って言う意味で、まめをぶつけるんだよ」
 そしてお父さんは改めて外に出て、豆をぶつけられるのでした。「アー、イタイ、イタイ。もうこの家には二度と来ません。お許しくだせーまし。イタイ、イタイ・・・」と。
 世の中には何かを悪者にして、そのことを声高に叫べば、自分が正義の味方になると信じる人たちが、たくさんいるように思います。息子によると、ひな祭りは男女差別と身分差別、端午の節句は男女差別、七夕は女性蔑視、8月は総懺悔月間、クリスマスは宗教の押し付け、子どもに「早く起きなさーい」と言うのも「支配・被支配」の関係の現われと教わってきているようです。それを聞くたびにひねくれお父さんは、「そういう考えの人もいるけど、父はそうは思わない」と彼が安直正義の味方にならぬようがんばるのでした。
 ところで私は『泣いた赤鬼』の話が好きなのですが、読んだ後には感動と共にもやもやが残ります。赤鬼は、青鬼は、人間たちは、あれでよかったのか・・・?世の中の全てを正か邪にすっきり分けてしまうのは、所詮無理があると思うのです。その人の人生のあちこちの停車場で、少しずつ「あっ、そうか!」と答えが出てくるものだと思います。
 ひねくれお父さんは、危険人物でしょうか? 

(*私が子どもに話す言葉は大人に話すみたいな表現ですが、わが家では自分の子どもにはこのような話し方で接してきました)


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嫁菜(よめな)

2014年10月

  《嫁菜(よめな)》  「野菊と嫁菜は、同一のものか否か?」
 いきなりですが、嫁菜(よめな)と野菊について調べてみました。患者さんに質問されたのです。恥ずかしながら、私は「嫁菜」のほうは名前くらいしか知りませんでしたが、「春に柔らかい若葉を摘んで食す」のだそうです。
 角川国語辞典などによると、嫁菜は「キク科の多年草。秋、薄紫の花が咲く。若葉は食用。別名はぎな」とあり、野菊(野路菊)のほうは「①野に咲く菊。②よめなの別名。」と書いてあります。つまり、 野菊と嫁菜は同一のもので、「春はおいしい若葉を提供してくれる嫁菜で、秋には路傍に薄紫の小さな花を咲かせ、野菊と呼ばれる」ということのようです。
 ただし前述①のような言い方で想像できるように、たくさんの種類があり、必ずしも同一とは言えないようです。例えば結構大きく茂るシオンなどは、よく似た薄紫の花で「野菊」の範疇に入れる人もありますが、春の姿はどうなのか、また嫁菜ご飯に出来るのか、調べてもわかりませんでした。同じく嫁菜のほうも、種類がたくさんあるようです。どうも国語辞典関連では野菊をヨメナの別名とする記述がよく見られ、植物図鑑などでは嫁菜の別名として野菊を挙げた例は少ないようです。私が調べた範囲では、よく似た植物に毒性は無さそうですので、勇気ある方、秋のうちに野菊の生息場所を覚えておいて、春になったら若菜をお食べください。嫁菜には、解熱・利尿の薬効があるということです。 レシピはネットでも紹介されていますので、お調べください。まだ冬も来ないのに、春の小さな幸せが待ち遠しくなりました。
 ところで、小寒い風吹く季節になると、私は路傍の小さな花を摘んできて、極小一輪挿しにさして眺めています。9月に京都の山里で頂いてきたススキや彼岸花が枯れてきたころ、いつも野菊を摘んでいる場所に行ったら、今年はちょうど草刈の後のようで見つかりませんでした。それで「このあいだ、どこかで見た」という曖昧な記憶を頼りに、半月以上あちこちを探しましたが見つかりません。それが、二日酔い解消ジョギング中に偶然見つけました。「どこか」は、そうそう、いつも歩いている「そこ」でした。いつも傍にあるというのに探していると見つからず、なんでもないときにその存在に気がつく・・・。まるで幸せの青い鳥のようです。そういえば決して派手ではない清楚な薄紫は、幸せの色かもしれません。
 そうそう、野菊といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』を思い出します。主人公と民さんが互いに「野菊が好きだ」と言い合ったとき、野菊はきっと幸せの花でした。しかし民さんが亡くなり、彼女の墓の周りに植えられた野菊は、主人公にとって青春の甘くも悲しい思い出の花になります。私は野菊の花が好きです。(いえ、なにも私に同じ経験があるというのではありませぬ)
 個人的な意見を言わせて頂けば、野菊は春に食す嫁菜とは、若干イメージが合わないような気がします。野菊は花屋さんで買ってきて、花瓶に入れて眺める花ではありません。   「遠い山から吹いてくる、小寒い風にゆれながら、気高く清くにおう花」(野菊の歌)です。春に食す嫁菜は、いのち生まれる春の小さな幸せの草であって、秋の野菊はちょっと悲しいのです。治療所の玄関においてある野菊の葉を食べてみたら、ただ苦い味がしました。


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Yさん

2014年10月

  Yさんの訃報が届いた。肺炎にかかり、入院先の病院で亡くなったということだ。Yさんは、子どものときからの病気で、自力では歩くことはもちろん、寝返りもできなかった。私は数年前までは、時々自宅に伺っていた。
 お別れは悲しい出来事ではあるが、私は大きく手を振って、Yさんを送りたい。不謹慎かもしれないが、私は次のように確信しているのだ。
 死の間際、Yさんは50年あまりの人生を、一瞬の内に回想する。そのほとんどは辛いものであったに違いない。同じくらいの歳の子どもたちの冷やかす声、その回りの大人たちのひそひそ話。泣いている母を見るのも、辛かった。時々夜中にふすまの向こうから聞こえる、母の啜り泣きも辛かっただろう。
 しかし、しかしその回想の最後、彼の命がこの世を離れる瞬間、彼の身体は自由になる。彼は自分の足で布団を跳ね除ける。そして歩く。走る。素早く、軽やかに。もちろん彼は動くことを知らなかったのだから、流れるようにとはいかず、動作は多少ぎこちない。しかし彼がずっと憧れ、ずっと諦めていたことが、今はできる。
 彼は叫ぶ。「動ける!動ける!!なんて軽いんや。なんて自由なんや!なんて素敵なんや!じぶんが思ったように動ける。それって、なんて素敵なんや。自由って、なんて素敵なんや!」
 そのあとの一瞬の中のさらに一瞬、彼は思った。「なんで今までこんな簡単なことが、出来なかったんやろう?」
 そして、そのあとのもっと短い一瞬のうちに彼は悟った。「そうか、演出や。最初から出来たらおもしろうない。動けるのが当たり前の人には、こんな素敵な思いは逆立ちしても味わえんやろなー。50年出来んかったことが突然できる!だから、だからほら、こんなに素敵や! そうや、お母ちゃん!お母ちゃん!ほら、ぼく歩けるで!走れるで! ほらほら、お母ちゃんって!ぼくむちゃくちゃ幸せやで。世界一幸せやで!」
 そこまで言ったころ、彼は自分の身体から離れて浮んでいく。「あらら、これはまた素晴らしい! 泳げる。ぼく泳ぎもできるんや。ほらほら、お母ちゃん! なあ、お母ちゃん!」
 Yさんは自分が部屋の天井を抜けて、旅立っていくのがわかった。横たわる自分の身体と、その横で小さな肩を震わす、老いた母が見えた。彼はつぶやく。「そうや、僕は死ぬところやったんや。時間がない。」慌てて言った。「お母ちゃん、ありがとう。産んでくれてありがとう。ほら見てや!ぼくクロール出来るんやで。僕今、むちゃくちゃ嬉しいで! お母ちゃん、苦労して育ててくれて、ありがとう!ほら、ぼくのこと見てや!ありがとう。さようなら。ありがとう・・」
 私は現場にいなかったから、見てはいない。だがたとえその場にいたとしても、一連の出来事はあまりに短い時間に起こっているのだから、周りの人には見えないだろう。しかし私は、このことは事実だと確信している。彼は母に「ありがとう」と「さようなら」が言えた。母親は少し耳が遠いが、何か聞こえた気がして彼の方を見ただろうか。彼女はきっとすぐには理解できない。でも彼の声は当分の間、母の周りを漂うだろう。そしてやがて彼女が人生を終え、彼のいる世界へ行ったとき、彼女の息子は出迎えて言う。「お母ちゃん、お疲れ様でした。僕ちょっとこっちに早よう来て、お母ちゃんを迎える準備しとったんやで。そうそう、見てや!ほら、僕歩けるんやで。自分で動けるんやで。お母ちゃん、ぼく歩いてこの辺案内したるわ。」自分の足で立っている息子を目にして声も出ない母親を見ながら、彼は笑顔でそんなことを言うのだ。
・・・私の想像に過ぎない。しかしそんな想像が出来るような、安らかな、安らかなお顔だったらしい。私たちがこの世で過ごす時間は、悠久の時の流れの中では50年も1秒も、きっとたいした違いはないのだ。


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梅雨の思い出

2014年5月

  芭蕉をはじめ『五月雨を・・・』という句がいくつもありますが、『五月雨』は梅雨の長雨のこと。『五月晴れ』は五月雨の晴れ間のことを指す言葉だそうです。 もっともこれは旧暦の話で、今の五月晴れの青空には新緑が映え、気持ちのよいものです。それでも五月の末頃からは、天気予報で「良い天気です」と言われても、どんよりした空が多くなるような気がします。患者さんも「天気が悪いと、なんか気分がどんよりして、身体もおかしいですね」とおっしゃる方が多くなります。
 でもそんな方ばかりではありません。何年も前に亡くなられた、ある患者さんのことを思い出しました。
 彼女(仮にAさんにしましょう)は明治の末に、さる良家の長女として生まれました。しかし両親や何人かの弟妹との幸せな日々は、ご両親の死と共に崩れてしまいます。かつての使用人や近所の農家に頭を下げ、Aさんは慣れぬ手で小さな畑を耕し、必死に働いて幼い弟妹を育てました。その後も信じていた神様を疑わねばならないような、理不尽な試練が Aさんに与えられました。しかし彼女は負けませんでした。やがて、その時代にはほとんど知られていなかった、アメリカ式の幼児教育の勉強に取り組み、今日の幼稚園・保育園の魁のひとつとも言える施設つくりに関わることになります。戦前Aさんからの指導を受けていた方に、彼女の当時の様子を伺ったことがありま す。「今は穏やかやけど、若い頃は、そら厳しかったでー」という風な方で、周囲の人にも自分自身にも厳しかったけれど、心根の優しい方だったそうです。
 Aさんはその順風満帆とは言えない人生の終わりのほうの何年間に、縁あって私の治療所に通ってくださいました。Aさんの指の何本かは曲がっており、脊柱にもかなりの側湾がありました。辛い思い出を自慢げに話されることはなく、ポツリポツリと話されました。私はそのポツリの話と身体から聞こえる声を組み合わせ、 「そうすると、なるほどこう曲がるのか」などと、Aさんの歩みを想像しました。
 そうそう、梅雨の話をしているのでした。Aさんは二時間ほどもかけて、某所から週一回来院されていました。朝から雨の降り続くある梅雨の日、背中や足元をずぶぬれにして来院されました。「いやー、大変でしたね。これからこんな雨の日は、私からお電話して、日を変えましょうね」と私が申しますと「少しだけ歩いて、バスに乗ったら、あとは電車と地下鉄を乗り継いだら簡単に着くから、便利でございますよ」と答えられます。そして治療が終わる頃、仰向けになって脛や腕にお灸をしているときに、こうおっしゃいました。「皆さん、こんな雨の日は嫌いだとおっしゃいますが、私は好きでございます」
 ・・・お嬢様だった頃のある梅雨の日、雨で外に出られない幼い妹や弟たちをお屋敷のどこかの部屋で遊ばせ、Aさんはそっとその部屋を抜け出して座敷に行った。そして床の間の下の小さな窓を開け、腹ばいになって軒から落ちる雫を見ながら、聞くとはなしに雨音を聞いていた。すると雨音の中にはリズムがあり、それが楽しい調べに聞こえてきた。やがて辛い日々が訪れることを、その日の彼女は知る由もない。しかしそれ以降の辛い人生の中で、いつか雨音は彼女を慰めてくれるようになっていた。Aさんはこうおっしゃった「雨の音を聞くのが、私は好きでございます」
 私が「何か気の利いた言葉を発しなければ」と思っている間に、Aさんは寝てしまいました。穏やかなお顔でした。その日以降、Aさんの次の時間は空けておくことにしました。楽しい思い出話をしながら、毎回見事に「おやすみなさい」でした。彼女に「ごゆっくり」と小さくつぶやき、私は彼女が買ってきてくださるスペシャル焼肉弁当をいただくのでした。
 Aさんが雨音の中に楽しい調べを聞くようになったのは、本当は辛い日々を送るようになってからかもしれません。彼女の人生で幸せと辛さと、どちらが多かったのか私は知りません。しかし彼女の訃報を受け取ったとき、私は思いました。亡くなる間際、Aさんは雨音を聞いていたに違いないと。もし天国にも梅雨があるのなら、お嬢様は腹ばいになって、今頃は楽しい雨音を聞いているかもしれません。


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お相撲さん

2014年3月

   いきなりですが、ご報告です。私、3月16日のNHKのテレビ放送に2時間あまりの間、画面の右下にたびたび出ていたそうです。「そうです」と申しますのは、テレビに映る場所とは知らずに現地に参りまして、放映されたという画面も見ていないからです。じつは患者さんに大相撲大阪場所の溜り席券を頂戴し、生まれて始めて「大相撲」というものを生観戦させていただきまして、その席がテレビに映る場所だったというわけです。あくる日に妻の実家から「あんたらテレビに映っとったな。見たでー」という電話があり、「あらまー!」とびっくりした次第です。夢中で観戦していたので、きっと口をぽかんと開けたアホ面だったことでしょう。
席はとても良い位置で、隣に着物の似合うきれいな女将さん風の女性がいらして、そのしぐさには品があって・・・。じゃなくて通路に面していたので、土俵入りの際には力士入退場の行列で化粧回しが私の肩を擦り、彼らの歩みの「ドッシドッシ!」がお尻に響きました。ま、テレビはこっちにおいといてですね、実際に間近で見る相撲はすごいですねー。おもしろいですねー。迫力ですねー。
ところで私は仕事柄、力士の動きと肌の美しさの関係を観察しました。結論を申せば、調子のよい力士の肌はきれいです。特に横綱白鵬と日馬富士、それに今場所終了後に横綱になった鶴竜の肌は美しかったです。日馬富士は顔こそでこぼこですが、首から下はスベスベでした。彼らのつやのある肌は、力士がいかに精進しているかを示しています。一方、黒星が続いたり肩や膝などを痛めている力士は、テーピングや湿布・サポーターをバリバリにしています。そのかぶれによる肌荒れもあるでしょうが、肌も見た目が美しくありません。吹き出物も多く、内臓などの健康状態の悪さまで想像させます。また調子が出ずに連敗中の力士は、気のせいか、顔にも動きにも精彩がありません。
横綱をはじめ上位力士には世話をする付き人がいて、彼らが風呂で全身をゴシゴシやってくれると言いますし、お肌の手入れもやっているのでしょう。しかし、ここで言う精進とは、お肌の手入れではありません。バランスの取れた食事・睡眠・生活のリズム、それに充実した気合を保つという精進のことです。調子が良い力士は美しい。また今は負けていても調子自体は良く、気力が充実した力士は美しく、次の勝ちを期待してしまいます。
元気になると、人はそれなりに美しくなります。これは普段から患者さんを診させていただいていて、私がいつも思うところです。当院のホームページにも書いておりますが、このたびもうひとつ追加します。「勝負に勝つ動きは美しい。強いは美しい」 たゆまぬ精進から生まれる動きには勝つための合理性があり、合理が美しく見えるのは道理だと思うのです。皆さん、美しくなりましょう。
なお今場所は千秋楽近くになって、両横綱が連敗しました。白鵬は傷めた手首にテーピングをしていましたが、残念ながら彼らのそのころのお肌の観察は出来ませんでした。


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牡蠣の条件反射(訳ありで、4月10日ころまで限定 →訳無しになったので、限定解除)

2014年2月



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私の治療所では、時々子どもの食べ物の好き嫌いが話題になることがある。ある日、「何かをすると、一発逆転ホームランってないですかね?」と聞かれて、自分に起きたある事件を思いだした。

幼い頃、私は好き嫌いが多く病弱だった。冬になると、父が「これは大変に滋養がある。嫌いでも食べなさい」と無理やり牡蠣料理を私に食べさせた。私は泣きながら「ごっくん・オエー」を繰り返す。適当なところで母が「今日はがんばったね。ひとつ食べたもんね」と助け舟を出し、やっとごちそう様になった。今思えば、二人は役割分担をしていたのであろう。母は助け舟を出すだけでなく、私が食べるように調理を工夫してくれた。厳しくも優しい二人の作戦は少しずつ成果を上げ、私に苦手な食べ物はほぼなくなった。だが牡蠣は別だった。心の底に出来上がった強固な条件反射『牡蠣=オエー!』が、ずっと居座っていた。私には、牡蠣のおいしい記憶などなかった。
その日、馴染の患者さんが発泡スチロールの箱を持って来て「ホレ。例の牡蠣です」 ん?例の?・・・そうだった。前回の治療のあとで、彼が産地から取り寄せているという牡蠣の話が出ていたのだ。その牡蠣の殻の縁に口を当て、ひと口でシュボボと食すとどれだけおいしいか・・・。身振りを交えて熱心に話す彼に、私は適当に相づちを打った。だけど「ぜひ食べてみたい」などとは、間違っても言わなかった。何しろ私は『牡蠣条件反射』持ちなのだ。ところが気のいい彼は、早速注文をしてくれたらしい。
私は「えらいことになった」と思ったが、彼には言えない。牡蠣を喜んでもらってくれそうな友人一家の顔を思い浮かべていると、彼は箱を開け、大きな牡蠣を一つ取り出した。「こないしまんねん」と持参の曲がったナイフで器用に貝柱を切り、殻を開いた。醤油数滴とレモン(これも持参)を絞りかける。「こうやってホレ」 シュボボ、ゴックン。上を向き、3秒ほど目を閉じ「アウー!」・・・至福の顔。『牡蠣条件反射』持ちの私も、つい言ってしまった。「ワーォ、豪快!うまそー」 
「牡蠣は、この食い方が一番でっせ。あー、たまりまへん」と言いながら、彼はすでに二個目の牡蠣にナイフを差し込んでいた。そして「センセ、ホレ」 なんとその牡蠣は、私の目の前に。「へっ?いえ、こんな豪快な、私、その初めてで、あのー」 「簡単でっせ。ここらから、シュボボって一気にホレ。あ、レモン適当に」 適当に、じゃあないってば! えーい、ままよ。シュボボ・・・。
レモンが一瞬香った。そして3秒後「アウー!」あれれ、どうした? 本当においしい。吐く息の中に、今度は牡蠣の香りがした。条件反射のスイッチが入ってしまう・・・。「あら?」何も起きない。不意に、栄養と元気の関係を正座で説く父の顔と、料理の工夫をしてくれた母の割烹着姿が頭に浮んだ。二人が笑った。「おいしいだろう?」 すると心の中で、静かなどんでん返しが起きた。記憶の海の底に沈んでいた牡蠣の味が、オセロゲームのように次々に裏返った。大歓声はないけれど、一発逆転ホームランだ。
私の『牡蠣条件反射』は、こうして消えた。しかし穏やかな反射のようなものはある。牡蠣を食べると、私の心には遠い日の父と母の笑顔が浮ぶのだ。



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夏去りぬ

2013年10月

 《夏去りぬ》  8月末から9月初めまで休みを頂き、鹿児島まで帰省ドライブをしてきました。夜0時出発。親子4人で楽しいドライブでした。目の不調で1年近く車の運転が出来なかった妻が少し、若葉マークが取れた長男が半分くらい、それぞれハンドルを握ってくれたので、私には今迄で一番楽な長時間ドライブでした。私じつはこの半月ほど前に、またしても自転車ごっつんしておりまして、このところ自転車だけでなく、運転というものにやや自信をなくしておりました。そんな私にとってこのたびの長距離ドライブは、ささやかな「楽しいじゃない!」の連発でした。
 途中で福岡の「須恵」というところでいったん高速道路を降り、明治の富国強兵政策を支え、日本海海戦勝利の一端を担った炭鉱町の「炭鉱廃墟」を見てきました。海戦勝利がここで出てくるのは、須恵炭鉱が当時海軍所轄の炭鉱であり、ロシアの艦船が寄港先で積んできた石炭より、須恵炭のほうが良質だったからです。低品質の石炭は多くの煙を吐き散らす一方、充分な出力が出ないのです。須恵役場に聞いて資料館を訪れると、懐かしい炭鉱夫長屋やボタ山の写真が展示してありました。懐かしいといいますのは、私は幼少期に福岡に住んでいて、どこか(たぶん筑豊)の炭鉱町に住んでいた伯父一家を訪ねた記憶があるからです。そんな昔のいい加減な記憶をもとに、子どもたちにいい加減なうんちくを披露してきました。(たぶん半分は、でたらめです)
 お気づきの方もおいでだと思いますが、須恵は古墳時代の遺跡から出土する土器の一種「須恵器」の元になった地名です。地面の深いところからは石炭、浅いところからは多くの遺跡が見つかっています。この日須恵器は見つかりませんでしたが、資料館で教えてもらったボタ山の一角で、石炭のかけらを拾って帰りました。この3日ほど後、「石が本当に燃えるかどうか、確かめたい」という息子のリクエストに応え、実家でのバーベキューの際に実験しました。小学校のだるまストーブ、当時住んでいた家での風呂焚きに使った覚えはあるけど、最初にどうやって火をつけたか覚えていない・・・。で、燃え盛る炭の中にに放り込んで団扇で扇ぐこと五分、燃えましたですねー。ただし黒い煙を出すわ、コールタールの臭いは撒き散らすわ・・・、「石炭はバーベキューには向いていない」ことがよーくわかりました。
 ところで鹿児島には何度も帰省しているのですが、今年は初日以外は毎日どんぐりのような大粒の雨が、繰り返し降りました。西南に向かった私たちと入れ違いに、日本列島を北東に移動していった台風が、分厚い雨雲を残していったようです。しかし雨がやんだわずかな時間に、砂金取りや釣りが出来ました。また、あれだけ降ったというのに、昔はしょっちゅう起きていた洪水にもなりませんでした。なお、わが一家は全員雷が大好きでして、稲妻が光る度に「キャッホー!」と声が上がっていました。ということで、この夏休みは天気も充分楽しみました。
 九州にいた6日間、夏の強い日差しを充分に浴びたのは、元炭鉱町を歩いた初日だけでした。あの日、台風の影響による強い風に流される低い雲のずっと向こうから、入道雲が私たちを静かに眺めていました。ボタ山探検を終え、車に乗り込むときにもういちど空を見上げたら、入道さんはゆっくりと背中を向けるところでした。ちょうど横を向いたときに見えた横顔は、ちょっとさびしそうでした。


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博物館に行こう

2013年6月

 先日、博物館に行ってきました。名をミホミュージアムといい、滋賀県信楽の山中にあります。すばらしかったです。草津や信楽から直通のバスが出ていますが、都市部からは遠く、行くのにはちょっと不便です。しかしその不便を差し引いても、訪れる価値は充分にあります。正味山の中なので、近くには食事や買い物をするお店はありませんが、施設内に自然農法の農園があり、そこの産物で作られた料理を出すレストランがあります。行列が長かったので私は食べませんでしたが、なかなか評判がいいそうなので、また行く機会があれば、寄ってみたいです。
さて、肝心の展示品は古代ギリシャ・ローマ・エジプトなどから中国・日本の正倉院まで、美術や歴史の本でしか見たことのないシルクロードの品々がいっぱいです。2000年以上前のガラスや金銀製品が渋く輝き、石像は昔からそこにあったような顔をして鎮座していました。今回の企画では、現代技術でも製作が難しいような古代のガラス製品を、推理・試行錯誤の末に再現したガラス工芸作家や考古学者・美術品復元技術者のシンポジウムもあり、一日中、存分に楽しむことが出来ました。
ただ、この企画は6月初旬ですでに終了し、期間中大英博物館などから貸し出されていた品は、今ではもうありません。しかし貴重な古代美術工芸品は常設されています。ルーブル美術館中庭のガラスピラミッドなどで知られるイオ・ミン・ペイ氏が『桃源郷』をイメージして設計したという建物だけでも、なかなか見ごたえがあります。
そうそう、彼が中国系のアメリカ人ということで、中国や欧米でも有名になったらしく、行き交う人々の言葉も日本語だけではありません。団体外国人観光客の会話は、眉をひそめたくなるほど騒がしいことがありますが、ここでは静かで上品。それに駐車場のガードマンのおじさんから学芸員のおねえさん・案内のおじさん・掃除のおばさんまで、実に気持ち良い対応をしてくれるのです。このミュージアムは、ある宗教団体と関係のある施設ですが、拝観には信心は必要なく、そのせいでいやな思いをすることはないでしょう。
ということで、考古学や古代の美術に興味のある方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう? 期待を裏切られることはないと思います。交通費は若干かかりますが、拝観料1000円は安いと感じられることでしょう。

《おわり話》から
 ミュージアムの続きです・・・ご紹介した施設は開館までに数百億円を要したと言われます。施設の維持にも相当な費用が必要でしょう。そもそも芸術作品の維持・保存・調査・研究・展示などには、大変な手間やお金が必要です。私はこういった施設や組織の維持について、国なり自治体にある程度支える義務があると思います。また宗教組織も、税などの適正な監査があれば、大いに関わっていいと思います。
 もうひとつ言わせてください。動かせない歴史的・地理的財産は日本各地にありますが、動かせる財産や美術館・博物館それにコンサートホールなどの文化施設は、東京に集中しすぎではないでしょうか? それらが溢れるほどそろった上野の公園でならば、私は充分一ヶ月、いえ半年は過ごせます。東京の人なら少しの電車賃と1,500円の入館料で、気楽に行けてデートも出来る美術館や博物館ですが、鹿児島の青年や青森の乙女が、上野の美術館で待ち合わせをして芸術的なデートをしようとしたら、相当なお金や覚悟が必要です。これって国民として不公平ではありませんか?
 そこで、こんなアイデアはどうでしょう? 東京都民以外の人は、上野駅の改札で「おのぼりさん500円入館券」をもらえる。もうひとつ。相撲の地方場所みたいに、東京に集められた品々を都のお金で、定期的に地方に巡回させる。入館料は500円。夏の選挙でこんな演説を聞いたら、私は人柄・政党無視で投票しちゃいますけど・・・。


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旅立ち

2013年4月

 今回、私事で恐縮です。
 世は、花咲き誇る春。多くの人が転勤・引越し・進学などで、人生の新しい一歩を踏み出します。我が家でも、三男が大学入学のため、ウキウキ・ワクワク、千葉で一人暮らしに突入です。三月末になってからの決定だったので、入学準備やら下宿や切符の手配など、息子も家の中も大わらわでした。
 ところが騒ぎが一段落したら、我が家はなんとなく暗いのです。めでたいより、切ないのです。春なのに、文字通り「サクラサク」季節なのに、このせつなさは何でしょう。このやるせなさは何でしょう? はい、わかっています。たぶん息子の一人がそばにいなくなることが、寂しいのです。
 思えば四十年ほど前のこと、私も彼のように家を出て行ったのです。母は百枚くらいの十円玉を布袋につめて、持たせてくれました。「両替も大変でしょう。これで何回か電話できるよ」そして、やがて何通も来た手紙には「手紙を書いてね。何回かに一回でも良いから」「あんたの机の上には、一輪挿しに毎日花を生けて、お茶もあげてるよ」 それなのに、あーそれなのに・・・。  「母上!ごめんなさい!私はアホでした。親不孝ものでした」 何ですと? 今頃反省してももう遅い!はい、そのとおりです。これからせいぜい親孝行させてもらいます。わが血を引く息子は、きっと父と同じことをするでしょうね。
 話は変わりますが、私が高校を卒業するとき、担任の先生がこういうことをおっしゃいました。
「『はなむけ』という言葉があります。江戸時代頃のどこかの長屋を想像してください。住人の誰かが旅に出るところで、長屋の皆が彼を見送る場面です。当時の旅は今と違い、少々贅沢でもせいぜい荷を背負った馬を引いて、ひたすら歩く旅でした。そして災害や盗賊とも出会うことがある、危険なものでした。無事に帰ってこられるとは限りません。長屋の人々は気はいいのですが、お金持ちではありません。旅人にたくさんの餞別を持たせたり、旅先の宿の世話などは出来ません。彼らが旅人の無事のために出来ることは、わずかの餞別とおにぎりを持たせるくらい。他には馬の鼻を行き先の方向に向け『達者であれ。息災であれ』と祈ることでした。旅の『はなむけ』の語源は、庶民のこんな風な『馬の鼻向け』だそうです。皆さんはこれから進学・浪人・就職など、それぞれの旅立ちをされます。今日卒業された皆さんに対して、私は祈る以外もう何も出来ることはありません。ここに残り、皆さんを送り出す私は、馬の鼻向けの話などをして、皆さんのすばらしい未来を祈ります。それだけです。あ、話し相手くらいは出来ますから、遠慮なくいらしてください。皆さん、卒業おめでとうございます」
 貧乏長屋の住人たる私はこの話が好きで、春になると思い出します。今、息子の馬の鼻を、そっと未来に向けた気持ちでいます。20年か30年か後、誰かの馬の頬に手を触れようとしたときに、彼は希望と期待に満ちた過去のひと時を思い出すでしょう。そこに後悔が混じっているなら、それが少ないことを祈りましょう。
 何はともあれ、世の旅立つ青年たちに幸あれ!心からのエールを送ります。

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五条鴨川の怪

2012年10月

 近年で3番目に暑かったという夏が、過ぎて行きました。とんでもない事件が続く狂おしい夏でしたが、虫の音とともに、心地よい風の吹く世の中になれば・・・などと言いながら、今回はミステリー話です。もっとも、最近お見えになった患者さんには、もう話してしまったネタです。
 京都は七条大橋のそばの町屋(橙屋)で、月に2~3回、グリーフケア協会の仕事をしていることは、以前お知らせいたしました。これはその町屋からの帰り道でのお話です。
 講義が終わると夕方6時頃から、まず高瀬川沿いの道を五条付近まで上がります。そして河原町通りに出てコンビニでビールとチキンナゲットを買い、いにしえ人の栄枯盛衰に一応思いをはせたら、ルンルンと鼻歌を歌いながら鴨川に向かいます。幕末の騒乱などを再びちょっとだけ思い、ナゲットをかじりつつビールを飲んで、四条大橋まで河原を歩きます。
 その日も「早く河原に下りて、ビール飲むベー」と河原への階段に近づきました。すると小学校3年生くらいの女の子が、段の中ほどで自転車と格闘していました。その階段は古いものらしく、一段一段は結構高さがあり、しかも歪んでいます。彼女は自転車を階段の上まで必死で持ち上げようとしているようですが、どう見ても格闘には負けそう。夕方の川辺とはいえ八月の京都、真っ赤な顔で格闘する女の子は、あまりにかわいそうでした。
「お嬢ちゃん、この自転車を上まで上げるの?」
「ゼーゼー!」女の子は真っ赤な顔をして、うなずくだけで声も出ません。
「お嬢ちゃん、階段の上に自転車をあげるときはね、ほれあそこ、端っこには段々がないから、あそこを押し上げたら簡単だよ」 女の子は真っ赤な顔で私を見つめるだけ。おじさんはそんな目には弱いのよね。
「どれ、おいちゃんが上げたげよう」ということで、自転車はホイホイと上の道路に上がりました。自転車のスタンドを立て、「ねっ、簡単でしょ?じゃあね」と、私は再び階段を降りはじめました。すると階段の下にはもうひとり、一年生くらいの女の子が私を見ています。私が下りるまでずーっと。
「お嬢ちゃん、あなたもあそこまで上がるのね」
「私ねっ、私ねっ、お姉ちゃんに何べんも、もう帰ろうって言ったの」
「そうなの。でも、ここを上がんなきゃあいけなくなったんだよね? どれ、おいちゃんが上げたげるから、あなたはおいちゃんのビール持って。オッ、お姉ちゃんきたの? あなたはおいちゃんのナゲットと、ほれ、このかばん持ってちょうだい」という具合で、程なく自転車二台は無事階段の上に揃いました。
「はい、ビールちょうだい。あ、ナゲットも、おー、かばんも忘れちゃいかん。じゃあね!」
すると小さなほうの女の子が、私の前にやって来て言いました。えらいだみ声でした。
「おじちゃん、おじちゃん、あのね、おじちゃん男の人、ハイユウさんみたい。かっくいいかった」
ン~、なんて正直にほんとのことを言っちゃうの!おいちゃんはたちまち、心の中でスーパーヒーローに変身!
「おじちゃんありがとう」
「ワッハッハ!お嬢ちゃんたち、気をつけて行くんだよー!気をつけてねー!」おいちゃんはもう、自分がスライムになって、溶けながら階段をずり落ちているような気がするのでした。
 で、どこがミステリーかというと、またおもしろい出来事が待っているようで、私は何度かその階段に行ってみたのですが・・・、なんとその階段がない!!そこにはきちんとしたちょっと新しい(といっても昨日今日の作ではない)階段があるのみ。あの古い階段ではないのです。もう4回は現場検証しました。・・・はい、ご指摘は判ってます。「すでに酔っ払っていた」とおっしゃるのでしょう? いいえ!これから飲むところでしたってば!ん?そういえばあの子たち、ワンピースも自転車もえらくレトロだった。スーパーヒーローが振り向くと、そこにはもう誰もおらず、ただ女の子の笑い声が聞こえたような・・・。以上、晩夏の京のミステリーでした。

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秘境編

2012年7月

 今回は秘境編??です。私が住む豊中市の東側にある東(西)泉丘一帯は、不動産業者筋では「豊中最後の秘境」と呼ばれるとかで、大げさに言えば「都会の中の奇跡の田舎」なんだそうです。少し歩けば、僅かに残ったため池・田んぼや畑、竹薮があり、マンションやアパートの隙間からは大阪市内の高層ビルや伊丹空港に発着する飛行機、西から北にかけては六甲から箕面・茨木の山並みを見渡せます。・・・などと申せば、不動産のコマーシャルのようですが、実はこれ本当です。ウシガエル・蛇・ヒメ蛍・ヤンマ・狐に狸(数年前からは目撃者がいませんが)などと出会うこともしばしばあります。その代償と言えましょうか、私には懐かしく思える堆肥の香りに鼻をつまみ、鶏の「コケコッコ―!」や梅雨時の蛙の「モーモー」「ゲコゲコ」をうるさく感じる人もおられるそうです。
 少し前のこと、私は早朝のため池で翡翠(カワセミ)を見つけました。数日後、朝の軽い運動をしている公園で、啄木鳥に出会いました。図鑑で調べたところ、コゲラという種類のようです。ものすごい体験をしたと思ったのに、図鑑によれば翡翠やコゲラは都市部のちょっとした緑のある公園では、実はよく見られるそうです。ちなみにサギや鴨は毎日ため池にいますし、春にミモザ・秋には彼岸花も咲きますので、写真の被写体をお探しの方はどうぞおいでください。最近コインパーキングもできましたので、お車の方も便利です。(なんだかコマーシャル調です) そうそう、なんなら私もモデルになりますよ。モデル料は、発泡酒一本です。
 次は、美しい花・・・と言うより「華」という字が似合う『蓮』のお話です。7月のある日曜日の朝、近所の農家の奥さんに「百円ぶんくださいな」といって、朝食に使うフレンチパセリを摘んでいただきました。そのとき立ち話の流れで、畑の入り口にある鉢から力強く茎を伸ばした蓮のことを話題にしたところ、「よかったら、持ってかえらはります?」「はぁ?」「(プッチンプッチン!) ほれ!」という具合で、立派な蓮の葉と神々しい蕾を、50cmほどの茎と共に頂きました。早速家に帰って家族総出で水揚げに励んだのですが、これが難しくて葉っぱの端から縮んでくる。結局風呂場の蛇口に茎の端っこを当てて手掌で包み、飛沫を浴びながら強制水揚げの術を用い、やっと水揚げに成功!
 二日後、早朝5時頃から少しずつ少しずつ花弁が解け、3時間ほどで見事な華が開きました。テーブルの上の花瓶に挿してあるので、いくらでも触れるのですが、手を触れる事はなぜかためらわれました。それどころか、そこには仏様がおられるような気がして、思わず手を合わせてしまいました。その華も午後には元のつぼみに戻り、「うまくいけば、何日か咲きますよ」と言われていたのに、あくる朝には花びらをひとつひとつ開きながら、はらはらと散華しました。
 私は世の無常を思う心を隠し、テーブルの上に残った花弁を手にして言いました。「ラーメン屋さんのレンゲは、これが元だぞ」「エッ!ほんとう?」「蓮華草の花のほうが似てる」「これで味噌汁をすくってみなさい」「やめなさい!」・・・・・・「子どもの頃、父さんの家の近くにレンコン池というのがあって、そこは泥んこぬめぬめでな、こうやってレンコンを探って・・・」「レンコンって、睡蓮の根っこ?」「レンコンはハスの根と書くけど、睡蓮じゃなくって蓮、根じゃなくて茎である!」「睡蓮と蓮って同じじゃないの?」「そうそう、私の田舎に天然記念物『オニ蓮』というものがあってな、巨大な葉っぱに子どもが胡坐をかいて座っとる写真があったぞ」「この葉にどうやって座るのよ?」と言う調子で、はかない散華とは関係のない話題でしばし盛り上がりました。テーブルに目を戻すと、また蓮片が散るのでした。
 もう一度機会があれば、今度は蓮華を拝みながら「象鼻杯」でお酒を飲んでみようと企んでいます。ただどうも一人では難しいようです。「象鼻杯」・・・、来年の梅雨の頃、どなたかお酒を持って来てくださいな。そしてお付き合い下さいませんか? 私は焼酎を用意しておきますから。

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パン焼き器

2012年2月

前号からさらに月日が経ち、江坂駅近の現地に≪引っ越しました!≫から、はや一年! 時は相変わらず容赦なく進み、今では以前の治療所の部屋の様子がもう思い出せません・・・というのはウソですが、良くも悪くも、今に慣れてきてしまいました。 いけない、いけない! 初々しい気持ちを、忘れてはいけない!!
さて前号で、昨年の正月にレコードプレイヤーを買ったお話をしましたが、今年は同じく正月3日にパン焼き器を買いました。一番安いシンプルものですが、これ、なかなか良いですよ。もうひと月以上になりますが、ほぼ毎日使用しています。つまり毎日焼きたてのパンが、我が家の食卓に登場しているのです。
もっとも私、パンは好きなのですが主食としては食べず、あくまで『おやつ』として食するか、お腹の隙間を埋めるためにいただくのみです(お腹には常に隙間がたくさんあります)。三度の食事の主食としては、なんと言っても米のご飯が好きで、パンを主食にすると『ごちそう様』の30分後には、また『いただきます』を言いたくなってしまう人種です。
ということで、このところ毎日おうちパンをかじっております。何しろ焼きたては、味オンチの私でも極めてうまい! それに、いろんなパンが出来るんだってば!! レーズンパン・ジンジャーパン・オカラパン・残り飯合体パン・おフランスパンなどなど。そのほかにもジャムが簡単に出来ますので、砂糖控えめジャムなどを作り、それをたっぷり付けたパンを食べています。
どうでも良いことですが、念のため申し上げておきます。パンを焼くのはパン焼き器と私の奥さんですが、朝食準備・味噌汁作製・片付け係は、もう30年近く私が担当しております。ですから大きな顔をして朝から存分に食べるのですが・・・はい、そうです。ご飯の量を減らしてないから、追加したパンの分だけ、私の体重はしっかり増えています。 先日、妻に「ホレあの人、そうそう、大助花子に似てきたよ」と言われました。「おのれ、バカ嫁! 何をぬかすかーっ!」(言いませんよ、こんなこと) どちらに似てきたのかは聞きませんでした。お二人には悪いけど、私どちらにもあまり似たくないですもの。

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ロッキングチェアでレコードを!

2011年11月

 えらく長い間、「通信」制作をサボってしまいました。なにしろ「気まぐれ」通信でもありますので、どうぞご勘弁くださいませ。
 さてサボっている間にも時は容赦なく進み、治療所の引越しからもう半年以上が経ってしまいました。最初の頃のように「アレがない!コレが見つからない!」ということは、さすがに少なくなりましたが、「そうだ、アレを使おう」と思った「アレ」が「あそこ」になかったり、なぜかカルテが行方不明という患者さんがあったりで(すみません)、治療室と私は、未だ阿吽の呼吸のお付き合いとはまいりません。
 ところで私は先の通信で「『扉を開いて中に入っただけで、心も体も安らぐような治療所』になるよう精進いたします」とか「18年前の開業時に抱いていた初々しいドキドキするような気持に戻って、歩み始めます。」と宣言しましたが、おいでになった皆様から見て、今の当院と私の様子はいかがでしょうか? どうぞ厳しいご意見をくださいませ。  

 話は変わりますが、我が家では今年の正月、レコードプレーヤーを買いました。決して豪華なものではありませんが、「いつか・・・、いつの日にか、グラス片手にロッキングチェアに揺られながらこれを聞くんだ」と心の中で呟かれ、箱に閉じ込められたままの苦難に耐えてきた古いLPレコードたちが、やっと日の目を見ました。ベートーベンさんモーツァルトさんから、ビートルズ・エリッククラプトン・レッドツェッペリン・クィーン、はたまたマイルスデービス・ジャニスジョップリン・ミレイユマチュー・S&G・井上陽水などなど、まあ節操もなくごちゃ混ぜなアルバムがたくさん出てきました。妻と私が独身時代に集めたものです。間違ってもミーハーなアイドルモノなんてない。(アッ! アグネスチャンは誰のだ?)
 吹奏楽をやっている息子たちに、早速聞かせますと・・・・・結果は、ビートルズとロックとクラシックは、彼らが生まれるずーっと前から我が家のBGMですので、「これ知ってる」とか「音がいい!」など、結構感動していました。マイルスは、子「この人かっこいい!」(父「私にちょっと似てるだろう?」) 陽水には、子「ちょっと声が変。いつもと違う」(父「30何年前はこんな声だったの!このおいちゃんはな、もう40年くらい現役で歌ってはりまんねん。時代が変わっても君たちが知ってるくらいやから、ある意味ずーっとトップにいはるんやね。考えたら偉いよな。昔はこの声を聞いとったんかー。さすがに声の年は隠せんなー」) ミッシェルポルナレフ、子「ふーん」(父「『ふーん』じゃなくて、何か感想を述べなさいな。美しい声でしょ?) 子「いや別に。ふつう」 五輪真弓 子「このおばちゃんの歌い方、きらい。顔怖い」(父「あっそう」) 
 彼らは補聴器が必要な私と違い、はるかにいい耳をしています。そしてレコードの音色がCDとは違うことをしっかり捉え、その音が気に入っているようです。しかしそれぞれの曲に対する感性には、良いとか悪いとかではなく、私たちの世代と大きな開きがあることを、彼らとのやり取りで気付かされました。古いレコードを手にした瞬間から、私たちは音だけではなく、それを聴いていた頃の思い出を同時に聴いているようです。貨幣価値の変化を考慮すれば、貧乏学生にとってLPレコードは、今のCDよりもずっと高価なものでした。購入の際には、衝動買いもありましたが、ジャケットを手に相当悩んで買ったものです。そんなふうに買われたLPの価値を、息子たちにこんこんと説明しても無駄なこと。そうそう、当時なら「何かの投票権獲得のために、贔屓の歌手のLPを何百枚も購入する」という発想は存在しなかったし、あったとしてもそんな考えは卑しく思えて、人には言えなかったでしょう。
いえいえ、すねているのではありません。青い檸檬の香を、ちょっと思い出しただけです。

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原爆乙女 ~家族ケア連載より~

2011年5月

 数年前の冬のある日、大阪の中心部から郊外へ向かう一台のタクシーの中で、70を少し過ぎた上品な夫人が亡くなった。平和な大阪の暖かいタクシーの中、居眠りをしながら、そのまま穏やかに穏やかに、夫人は旅立った。
 怪しい事件ではない。運転手には申し訳ない言い方だが、きっと「幸せを感じながらの死」だったに違いない。なぜそう思うかと言うと、ご子息がその日の母上の行動を手紙で知らせて下さり、そこにそう書いてあったからだ。
 手紙によると、その日彼女は、月に一度の定期健診を受けに某病院へ行った。馴染みの医師や看護師たちと他愛のない話をして、いつものように贔屓の某デパートでウィンドショッピングを楽しんだ。そしていつものようにタクシーに乗り込み、「〇〇付近までお願いします」とにこやかに告げると、ここでも初老の運転手と他愛のない話をし、思い出話などもしたかもしれない。やがて返事が来なくなった。ルームミラーの中の夫人は、穏やかに寝ていらした。やがて運転手が「お客さん、○○に着きましたけど、これからどう行きますか?」と聞いた時には、すでに彼女はもう息をしていなかったという。
 夫人にお聞きした彼女の人生の一部とその日の様子から想像するに、ご子息がおっしゃるように、彼女は「幸せに人生を終えた」と思いつつ旅立ったに違いない。神様が、ずっと昔から用意していた旅立ちだったのかもしれない。

 時は遡る。ある暑い夏の朝、人類がまだ見たことのない光が、空中で炸裂した。昭和20年8月6日8時15分、地上から約600m、場所は広島市の上空・・・。そう原子爆弾である。
 そのとき爆心地に程近い広島県庁庁舎の窓際の席で、ひとりの乙女がいつもの朝の業務をしていた。一瞬の光を感じた後、彼女の体は宙に浮き、どこかに飛ばされ、そして意識は消えた。
 やがて激しい痛みを伴い、微かに意識が戻った。ほんの今さっきまで目の前にあった机や向かいの席の先輩職員の姿はなくなり、彼女は瓦礫の中にいた。といっても周りを見回したわけではない。彼女の体は動かない。彼女は血まみれで、瓦礫の中に半ば埋もれていた。全身にガラスの破片が刺さり、体はトゲトゲのついた血糊の塊になっていた。
 「だいじょうぶか?」「おいっ!しっかりしろ」
 どのくらいの時間がたったのかわからない。救助の人がやって来た。無論記憶は、確かなものではない。ただ、こんな声の記憶が確かにある。「私はあとでいい。あの子だけは助けてやってくれ!」「俺たちより、あの子を先に!」「そうや。まだあんなに若いやないか。かわいそうやないか」うめき声に混じって、そんな声が聞こえていた。やがて運ばれていく臨時の野戦病院でも、その後転院していくいくつかの施設でも、同じような声が彼女の記憶に刻まれていく。
 彼女の周りの多くの人々が、自身が瀕死の重症であるにもかかわらず、彼女に救助や治療の順番を譲ってくれた。「あの子を先に・・・」と言ってくれた。そして彼らは、ほどなく世を去った。貧弱な医療物資の中で「なんとしても君だけは助けよう。生きるんだ」と言いながら必死で世話をしてくれた医師や看護婦さんは、彼女に精一杯の治療を施した後も現地に残り、彼女の何倍も放射能を浴び続けた。そして、やはり長くは生きられなかった。無償の愛だった。
 彼女が記憶の中の「あの子」が自分のことだとはっきりわかったのは、ずいぶん後になってからだ。何とかお礼が言えるくらいの体力が回復した頃、彼女は彼らの死を知る。何人にお礼が言えたのだろうか?
 もちろん、助けてくれた人々に直接お礼が言えなくても、彼女は心の中で何度も「ありがとうございました」と言っただろう。そして挫けそうなとき、「私の命は、私一人のものではない」「あの人たちのためにも、戦争のないこの平和の中で、私は精一杯生きよう」「負けるもんか!あの人たちの分まで、幸せになるんだ」と、自らを奮い立たせたかもしれない。
 しかし、ひねくれものの私は、こんなことを考えた。彼女は「私が死ねばよかった」そう思うことが度々あったのではなかろうか? 
彼女が原爆症だけでなく、PTSDに苦しんだことは想像に難くない。しかしトラウマとなって長い間繰り返し彼女を襲ったのは、あの光の炸裂より熱風より痛みより、あの無償の愛の声だったのではなかろうか?
 「みんな死んで、彼女は生きている」それは確かなことである。
 「あの人たちの分まで、あなたは生きる義務があるのよ」「頂いた命なんだから、大事にしなさい」というふうに、彼女は周りの人々に何度も言われたことがある。乙女にはその言葉が、ときにあまりに重く感じられることがあったのではなかろうか。そんな励ましが、かえって彼女を苦しめたのではなかろうか。私は相当長い間、彼女は苦しんだと思う。遺された人は、そんなものではなかろうかと思う。
 でも彼女は、いつか心の「ケリ」をつけることが出来たのだと思う。彼女は挫ける度に「彼らの命の分まで、私は生きよう。強く長く生きよう」と思える強い人になった。
 無償の愛は、いつでも真綿のように優しいわけではない。しかし、とりあえず初めには死に瀕した彼女を救った。やがて苦しめ、そしてまた救ったのだ。

 終戦をはさんで数年間、数回の手術を繰り返し、彼女は遅れていた乙女の人生をやっと歩き出す。いろんなことがあって、彼女は琴の師匠になった。お弟子さんによると、厳しくも優しい師匠だったという。
 人はこの世とお別れをする間際、一生の思い出が走馬灯のように廻るという。この世の最後に彼女の心にどんな思い出が浮かんだのか、私には知る由もないが、たぶん苦しい思い出ではなかったと思う。波乱に富んだ一生を、彼女は精一杯生きた。つらい思い出の部分は、親切な走馬灯は速く廻り、楽しい思い出を少しゆっくり目に廻り、ちょっと念入りに見せてくれただろう。そしてあの世に着いたときには、たくさんの懐かしい顔が「苦しかったろう。わしらの分まで、よう生きてくれたな」と言いながら出迎える。彼女は「お陰様で、いっぱい生きました」と答える。そしてお互いに「ありがとう、ありがとう」を繰り返し、抱き合うのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この文章は、ある雑誌に寄稿したものです。東北の震災に伴う原発の放射能漏れ報道、政府や原発の関係者の発言、いわれなき風評被害、そして被災者を中傷するなんとも情けない言葉を聞いて、古い患者さんのことを思い出し書いたものです。
 私の妻は、報道を何度も見るうちに、自分がふた月ほど前に受けたアイソトープ治療と、50年前に皮膚に受けた同様の治療を思い出し、心乱れて泣き出しました。同じような涙を流す人が沢山います。これは、人による二次災害です。天国の原爆乙女は、下界の様子を見て、顔を曇らせるでしょう。いえいえ、新聞を見て「けしからん!」と怒る私と違い、きっとあの穏やかな笑顔のままで、災いの一日も早い収束を願っていると思います。私も、ただただ祈ります。

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お引越です!

2011年2月

 18年ほどお世話になった、垂水町の治療所を移転します。
 新しい住所は『吹田市江坂町1丁目23-17喜巳ハイツ701』です。電話番号は変わりません。 町名は変わりますが、実際は江坂公園の向こうとこっちで、江坂駅からは、南北どちらの改札から出ても(南出口の方が少し近い) 2分くらいのところで、駅からはずいぶん近くなります。地図を同封いたしますので、ご確認ください。
 じつはこのところ、恥ずかしながら、自分でも汚い治療所になってきたと思っておったのです。ここで「エイヤッー!」一発、心機一転! 扉を開いて中に入っただけで、気持ちの安らぐような治療院を目指します。18年前の開業時に抱いていた「ドキドキするような初々しい気持」に戻って、精進いたします。体調の優れない時は江坂を思い出し、当院をおたずねくださいませ。また、体調の良い方は治療ではなく、どうぞ遊びにおいで下さい。新しい治療所には私の部屋《ハリソン庵》(もしくは《ハリソン サロン》)を作る予定です。訪ねてくださる人がいないと、私を冷徹に観察してきた妻は「この庵は遠からず、ゴミ溜めか倉庫になる」と申します。悔しいですが、私はそれを否定できません。皆さまと一緒に素敵な部屋・治療所にしようと思っております。どうぞよろしくお願いします。
 皆さまのお陰で過ごすことが出来た18年でした。荷作りのために、いろんな書類や道具を引っ張り出すと、昔々のグループサウンズの歌を聞くような、懐かしさを感じます。楽しいことも、苦しいこと・にがいこともありました。それらを経験させてくれた部屋に、感謝しつつお別れします。

 一年前の通信に「2月は如月・・・、旧暦二月はまだ寒さが残っていて、脱ぎかけた衣(きぬ)を更に着直したりする月であるから『衣更着(きさらぎ)』・・・・とか、「私の住まいの近くにあるミモザの木が、全体にポーっとした雰囲気になってきました。・・・・春の足音は近づいてきています」などと書いていますが、今年はもうしばらくは寒い日が続きそうです。ミモザのつぼみは、まだお愛想で少し黄色っぽくなっただけで、下から見上げる私に、微笑んではくれません。
 でも、「フッフッフ・・・。しかし私の治療所には、春が来る」。
 改めて申します。「江坂村においでの節は、どうぞ当治療所にお越しくださいませ」

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坐骨神経痛の幽霊おば様 ~家族ケア連載から~

2011年1月

 ある日、馴染みの患者さんからの紹介で、「右腰からお尻、足が痛くて歩けない」とおっしゃる女性から、往診の依頼がありました。声からして、かなり痛そうです。
早速立派なマンションを訪ねてみると、お手伝いさんに案内された薄暗い部屋に横たわっていたのは、あれは幽霊でした。人間には少し暗い部屋でしたので電気を点けると、眩しがる美しい上品な顔には、みだれ髪が・・・。挨拶もそこそこにさっそく様子を診てみます。幽霊の足に手を触れると、冷たく透き通るように白い(・・・足があるから幽霊ではないのか・・・)。
病名は「坐骨神経痛」。しかし痛みはすごいけど、あまり難しくない種類の症状です。あくまで彼女が人間ならば・・・ですが。ちょっとだけびくつきながら、定石通りに人間用の治療を開始して20分。(幽霊ならば、足が途中までしかないけど、幻肢痛はあるのかな?)などと考えながら、横向きでお尻を押したり鍼を刺していたら、突然、幽霊は人間になりました。透き通りかけていた足の肌はほんのりピンクに染まり、鍼をしていたお尻を突然隠そうとし、頬に掛かったみだれ髪を後ろに寄せました。そして幽霊おば様は顔を私に向け、こうおっしゃるのです。
「せんせい!もう私、治りました」
「なぬ!・・・こうやっても・・・、こうやっても痛くないですか?」
「はい、もう痛くありません。コーヒーになさいます?紅茶になさいます?」
私はおば様が幽霊ではなく、美しい生身の女性であったことに安堵しつつ
「あの、まだ鍼もついたままですし、もうちょっと治療を続けましょう」(でないと幽霊に戻ってしまうかもしれないでしょ・・・)なんて言わない。
で、更に20分が過ぎた頃、すっかり人間界に戻ったおば様は、ガウンを着て応接室に私を案内していました。
「お陰様で、もう少しも痛くありません。ありがとうございます」
「それはよかったです。でも、結構ひどい貧血がありますね。昔からですか?原因は調べましたか?」
「昔からです。ずーっとそうですから、特に調べていません」
「あのですね、訳のわからない熱がよく出ませんか?胃の病気や子宮筋腫なんて言われたことはありませんか?」
「いいえ。そのー、病院はあまり好きではありませんので・・・」
「じゃあ、そのー、ウンコは黒くないですか?血尿は?生理の出血は?」
「いえ、そのー、じっくりは見ておりませんが、別に何も無いんじゃないかと・・・」
「あのですね、腰や足はすごく痛くても、○○さんの今日みたいな痛みは、そんなに悲観すべき種類のものではありません。それより貧血です。ほっといていいものかもしれませんが、もしかして内蔵や血液の病気が隠れていることがあります。とりあえず内科を受診して、原因を調べてみませんか?」
「でも病院に行っているときに、腰や足が痛くなるかもしれないでしょ。心配で、家の外に出るのが怖いんです」
「〇〇さん、いいですか。治療後二時間は大丈夫ですから、今日でも次回でも、治療後、一二の三で受診したらいいでしょう? 腰痛より貧血の方が、深刻ですってば」
 
結局おば様は検査には行かず、人間界と霊界とを何度か行き来することになり、その度に私は往診をしました。幽霊が人間に戻る場面はなかなか感動的な瞬間ですが、立ち会う回数が二回三回となると、私も慣れてきました。
やがて幽霊おばさまから、予約のキャンセルの電話がありました。
「もう治りましたから、往診は結構です。お世話になりました」
「まったく痛くないんですか?大丈夫ですか?」
「ええ、もうすっかりよくなりましたから、いいんです」
「何か治療をしました?」
「はい。勇気を出して、道路向いの医院に行きまして、そこに入ったとたんに私倒れたようでして、気がついたらベッドで点滴を受けていました。そしたら、うそのように元気になりまして、それから毎日点滴をしていただいたら、もう腰も足も痛くなりません。点滴はよく効くんですね」
「それは良かったです。で、貧血の方の原因は調べましたか?」
「いえ。それも治りましたので、もういいんです。その節はどうもありがとうございました。ガチャッ!」
その後幽霊おば様からの連絡はありません。
そうか!彼女は、幽霊というより、きっと妖怪人間です。

以下、私なりの分析です。
《妖怪人間を幽霊にしていたのは「右坐骨神経痛」、および原因不明の「貧血」(調べたら分かるかもしれない)です。ただし坐骨神経の出発点近くにあると思われるヘルニアなどの圧迫は、あまり大きなものではなく、現時点では症状に対する大きな責任は無い。ただ強度の貧血が、その先の神経の通路にある腰臀部の筋の血流を悪くし、筋が固まり、それが神経を圧迫して痛みを発生させ増幅した。言い換えれば貧血とヘルニアなどによる圧迫の合わせ技一本の坐骨神経痛であった。したがって技の一方である全身の貧血が改善したら、坐骨神経の痛みも発生しなくなった》
だとすれば、この状態が続けばおめでたいのですが、坐骨神経痛の原因は消えたとはいえません。条件がそろえば再発します。また貧血の原因が内臓にあり、それが痛みの原因のひとつであった可能性もあります。

今、彼女がどの世界にいらっしゃるのか心配なのですが、私にはわかりません。しかしこの手のおば様は、悲劇的な結末は迎えないような気がします。想像したくないけれど、美しく悩ましい奥様はもうこの世から消えているのではないか・・・、経験的にそう想像します。といっても奥様が消えたら、そこには天下無敵の「大阪の妖怪オバハン」がひとり発生するのです。「妖怪に変身していたら、彼女は私のことを、もう覚えていないだろうな」・・・時々街でよく似た女性を見かけると、そんなことを思います。皆様、街で妖怪のようなオバハンと出会ったら、あきれる前に「彼女の過去には悲しい出来事があったかもしれない」と、たまには想像してみてください。 

ここで無理矢理、教訓を引き出します。皆様ご存知のとおり、痛みなどの症状の大きさと、実際の病気や怪我の程度とは、必ずしも一致していません。ところが痛みの苦労が大きかった場合は、「痛みの消失=完治」と勘違いをしやすいのです。痛みがなくなっても、密かに病気が進行する場合があります。妖怪に変身してしまうとどうなのかは知りませんが、人間ならば覚えておかねばならないことです。


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怪しい人 

2010年月

恥ずかしながら・・・・、

10月のある日、自転車に乗っていてブッコケました。自転車はフォークや車輪が修復不能なほどひん曲がったため廃車。なのに言い訳といいますか強がりと言いますか、それでも上手に(威張ることは無い)受身をしたみたいで、自転車の被害に比べると、体の傷はおでこをすりむいただけですみました。相手のお兄さんは、私が「私は大丈だから、もう行ってください」と何度行っても、「すみません」を繰り返し、なかなか立ち去ろうとしませんでした。彼が去ったあと、おでこの汗を拭いたら、結構な血が出ていて、私もびっくり!これでは「大丈夫」には見えまへん。(かすり傷でも頭の怪我は、盛大に血が出ますもんね)
じつは私2週間前にも、自転車同士で軽くゴッツンコしていますし、その直ぐあと車の運転中にバンパーの右前を、ブロック塀に擦っています。
思えば昨年末には、同じく車の横腹をガードレールに派手に擦っていました。その時に『私のたるんだ気持ちを引き締めるために、神さんが最小限の授業料で教えて下さったのだ』と思いましたが、授業の効果は一年も持たなかったわけです。留年です。ありきたりの言い方ですが、改めて心を引き締めます!
さて自転車と言えば、この際初めて自分の自転車を買いました。今までお下がりや廃品を修理して愛用してきたのですが、その修理痕が目立つのか、カギが壊れて見えるのか、私の人相が悪いのか・・・、おまわりさんに呼び止められ、親しく話しを聞かれた経験が豊富にあります。「ちょっと済みませんが・・・」と穏やかに言いながら、三人で私を取り囲むのです。無駄な時間を短縮するべく、言われる前に免許証を差し出しながら「はい、車体番号は、ここあたり」、それから住所・氏名・年齢・職業・・・。
約一年前の6回目には、私そのあと言いましたね。「あなた方が仕事で私を留めていることは理解しています。しかしこんな目に合うのが、私はもう6回目です。質問に答えてくれますか? 『私の今いるこのあたりで、何か事件があったのか?私の人相風体が怪しいのか?この自転車が怪しいのか?今無線で確認して、私に怪しいところは見つかったか?』」 すると「いいえ決してそのようなことはありません」
「私は決して気が短い方じゃないし、あなた方の仕事も理解しているつもりですがねっ!それでもわたしゃあ-、いいかげん頭にきますよ。そのことはお分かりいただけますかな?そう。だったら《この人は怪しく見えるけど大丈夫シール》を作ってこのあたりに貼ってもらえませんか?」
「いえ、そのような物はありません」
「それはわかるけど、6回はあんまりでしょう」
「すみません。もしこの3人のうちの誰かがまた声をかけたら、そんときは思いっきり怒ってください」
「ぷんぷん!」・・・・・ごっつんするのと、何か関係あるでしょうか?


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鐘楼流し 

2009年07月

鐘楼流し
お彼岸の話をしてからサボっていたら、もう夏になってしまいました。このところ地球温暖化のせいで、日本の四季の特徴が少なくなってきていると言われますが、この暑さは文句なしの夏を主張しています。
 先日ある患者さんに長崎の鐘楼流しのお話を伺いました。「鐘楼流し」と聞くと、私の心にはバイオリンの音色が物悲しい、さだまさしさんの「鐘楼流し」がすぐに思い浮かびます。そんな方は多いと思います。ところがその患者さんは「大概の人がそう思っていらっしゃるんですけど、そんな人は現場を見るとひっくり返りますよ」とおっしゃる。彼の地の鐘楼流しは、ニュースなどで時々見ることのある、中国や香港の旧正月の爆竹騒ぎそのものだそうです。流される船も、博物館に飾っておきたいほどの立派な船なのだそうです。爆竹の量は一軒で最低10万円は下らないとか・・・。その派手さ・豪華さは、各家の権勢を競うがごとく思えるようです。
  この鐘楼流しの大騒ぎは、観光客寄せパンダではありません。遠い昔から続く、中国の影響を受けた慣わしで、死者が行く浄土への道の邪気を払うためのドンパチなのです。この世に残った家族や友人たちの、旅立った人への精一杯の思いなのです。そういえば、さだまさしさんが亡くなった従兄弟のことを思って作ったという「鐘楼流し」の中には「賑やかに始まるのです」の歌詞があるし、終わりには爆竹の音も入っていたような気がします。
   「派手な船、派手な爆竹では風情がない」と言う人がいらっしゃるかもしれませんが、送る人の気持ちを思えば風情は充分です。私は涙が出そうです。


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トマソン 

2007年11月

トマソン
唐突ですが、トマソンをご存知でしょうか? 巨人ファンの方ならば「あのトマソンのこと?」と思い出す方もおいでかもしれません。1982年当時、巨人軍で4番を打っていた元大リーガーがいました。正確に言うと打っていたのではなく「高い年俸をもらって、盛大に空振りばかりしていた」バッター・・・、そして必然的に巨人ファンより阪神ファンに人気があったバッター・・・。そう、彼こそわれらがトマソンです。いえ、しかしこれでは半分正解で、十分正解ではありません。
 じつは『トマソン』とは、トマソン選手にちなんで命名された特殊物件の総称であります。すなわち、『ただ純粋に存在するだけで、なーんの役にも立たないもの、あるいは存在』です。例えば《家が壊され、更地の中に単独で残り、ドラエモンの『どこでもドア』みたいに突っ立ているドア》《電線も街灯もついていないのに、ただ立っている電柱》《上がった先にドアどころかフロアもない純粋階段》・・・要するに誰もがその用途も名前も知っているものなんだけれども、そのもの本来の求められる用を全くなさぬまま存在するもの・・・。これだけを頭において周りをじっくりと見渡せば、私たちの周りには常に一つや二つトマソンが存在します。しかも良く観察すると、明らかにトマソンに進化したあとから、なぜか丁寧に補修された形跡のあるものまで出てきたりして、トマソンが実に奥の深い存在であることを実感できます。
 ただその性格上、トマソンの存在は陽炎のごとく極めて移ろいやすく、また壊れやすいものです。もし何かの役に立ってしまったら、その時点でトマソン物件は「トマソン」の称号を使えなくなります。先の例に出したドアが本当に『本物どこでもドア』であることが判明したり、電柱をホームレスのおじさんが柱にしたり、純粋階段が植木鉢置き場になったりしたら、その時点でトマソンたる資格を失うのです。トマソンは、はかないのです。何のためにこの世に発生したのか思い出せないまま消えていくトマソン、決して自ら目立とうとしない奥ゆかしいトマソン・・・。いじらしいとは思いませんか? 私は、はかなくて純なトマソンのある風景が大好きです。
 リーダーや指導に当たる方々、一度このような覚悟を持って街に出て、トマソン探索をして見ませんか?そして心のカメラにトマソンを留め、次に子どもたちといっっしょに同じ場所に行ってみると、意外と彼らはまったく違うトマソンを見つけるかもしれませんよ。ぜひ「トマソン探索隊」を組織してください。お勧めします。
*トマソン研究には、1985年白夜書房発行 赤瀬川原平著 「超芸術トマソン」が参考になります。


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